ことの起こりは一本の矢文だった。
生贄を求める、白羽の矢。
誰も寝てはならぬ
犬夜叉たちの一行が辿りついた村は、山間の静かな村だった。
ひっそりと息をつめているような静かすぎるたたずまいは、どこか不気味な空気すら漂わせていた。
「陰気な村だな」
犬夜叉がつぶやく。
夕刻なのに、人影すらない。
この辺りで宿を頼もうと思っていたが、冷え切った雰囲気に、かごめと珊瑚は困惑した表情で顔を見合わせた。
そのとき、不意に人の気配が動いたかと思うと、物陰から様子を窺っていたらしい村の男たちが数名、鋤や鍬を手に一行の前に飛び出してきた。
「とうとう里にまで下りてきやがったか。半妖の化け物めが!」
村人たちは一様に犬夜叉を睨め付けている。
「半妖?」
かごめ、弥勒、珊瑚、七宝、雲母、五対の視線が半妖の少年を見た。
「なんで、おまえらまでおれを見るんだよっ」
四人は顔を寄せてひそひそとささやく。
「昔、この村でなんかやらかしたとか?」
「乱暴だった頃ですか?」
「おいっ! 言いがかりもたいがいにしろ」
犬夜叉は村人たちのほうを向いて怒鳴った。
「おれはおめえらなんて知らねえぞ? だいたい、この辺りへ来るのは初めてだ」
「とぼけるな。衣を替えてもその狐の耳で判る」
「狐?」
村人の言葉に、犬夜叉、かごめ、弥勒、珊瑚、雲母、五対の視線が今度は仔狐妖怪を見た。
七宝は慌てて耳を押さえ、かごめに飛びつく。
「おっ、おらは立派な妖怪じゃ。半妖ではないぞ」
「子供じゃねえ。赤い衣のおまえのことだ」
「いよいよ、直接村を襲おうというのか」
農具を武器として構える男たちと、犬夜叉はなおも睨み合った。
「人違いだって言ってるだろーが。おめえらは狐の耳と犬の耳の区別もつかねえのか」
「まあまあ、犬夜叉」
七宝を抱いたかごめが、犬夜叉と村人たちとの間に割って入った。
「何か事情がありそうですけど、あなたたちが思ってる半妖は、この人じゃありません。あたしたちは旅をしていて、たまたま、ここを通りかかっただけです」
だが、村人たちは胡散臭そうにかごめを一瞥した。
「その奇妙ななりは、妖怪の仲間じゃねえのか? それに、もう一人の娘のほうも」
「あ、あたしはおかしなところはないだろう」
たじろぐ珊瑚にも、村人たちは容赦なく疑いの目を向ける。
「妙なものを担いでおる。おまけに、肩のあれは……」
「尾裂ではないか?」
「雲母は猫又だ! どうやったら尾裂狐に見える」
「どうやら、まともなのは私一人というわけですな」
苦笑する法師は、だが、仲間たちの冷えた視線にさらされた。
「おまえが一番怪しげなんだよ」
弥勒に突っ込み、次の刹那、犬夜叉は風を切る音を捉え、はっとして、そばにいた村人の身をかばうように抱えて、地に伏せた。
「矢だ! 気をつけろ」
「な、なにっ?」
かごめが振り向くと、すぐ近くの民家に矢が突き立っている。
「矢文ですな」
白い矢羽のそれを、近づいた弥勒が引き抜いた。
文を開く彼のもとに、仲間たちが集まる。
「“今宵、戌の中刻”」
「……それだけか?」
七宝が訊いた。
「ええ、それだけです。ですが、これは生贄を差し出す日時を指定した文のようですな」
「どうして解るの? 弥勒さま」
「矢羽をごらんなさい。白羽の矢です。それに、村人たちのあの警戒心」
村人たちは怯えた様子で遠巻きに矢と文を見つめていた。
「そ、そうだ。稲荷の半妖の仕業だ。じゃあ、あんたらは」
「あんたは本当に、化け狐ではなかったのか」
「最初から違うっつってんだろーが!」
ようやく別人であることを信じてもらえたようで、犬夜叉たち五人と一匹は、事情を聞くために、村長の家へ案内された。
一行を迎えた村長は、人違いをしたことを慇懃に詫びた。
「村人が手荒なことをしたようで、申しわけありません。何しろ、ここ何年かは山の稲荷に住みついた邪神に怯え、みな、神経過敏になっておるのです」
「稲荷に邪神? 半妖と伺いましたが」
法師の指摘に、村長は沈鬱に表情を曇らせた。
「正体は半妖らしいが、我々にとっては邪神のような存在です」
いつ頃からか、山の稲荷の廃殿に、狐の耳を持つ白い髪の若者が住みついた。
その神秘の様子に、最初、村の人々は稲荷の使いと崇めたが、やがて、若者は村の娘を求めるようになり、それが、一人、二人と増えていった。
若者のもとへ行った娘たちは行方知れず、逃げ帰った一人の言葉から、稲荷の使いだと思っていた若者は、神の血など引いていないただの半妖らしいと判明した。
「それで、娘たちは?」
低い珊瑚の問いに、沈痛な声で村長は答えた。
「みな、死にました。あの邪神に喉笛を喰い破られて」
神の花嫁として差し出されたはずの娘たちは、邪神と契りを交わしたのちに、殺され、谷底へと捨てられていたという。
その後も、定期的に贄は求められ、村に若い娘の姿はどんどん減っていった。
「どうして刃向かわねえんだよ。さっき、おれたちに向かってきたように」
「奴は火を操る。自身は山に身を潜めたまま、村を焼きつくすことも可能なのです」
邪神の怒りを恐れ、人々は何年も娘を差し出すことで黙って耐えてきたのだという。
娘がいて他の土地で生活する力を持つ家族は、次々とこの村を離れていった。けれど、行く当てのない者や、年老いた者を抱え、この土地から動くことのできない者たちもいる。
「……ねえ、犬夜叉。なんとか、力になってあげられないかな」
小さな声で、かごめが犬夜叉にささやいた。
「おれは構わねえぜ。邪神なんかに間違えられたままじゃ、寝覚めが悪いしな」
弥勒もうなずく。
「村長さま。これも何かのご縁です。その稲荷の邪神、私たちが成敗いたしましょう」
「そ、そんなことができるのですか。どうか……どうか、お願いを……」
額を床に押しつけるようにして、村長は一行に頭を下げた。
生贄の刻限はこの日の戌の刻。
あてがわれた部屋で、犬夜叉たちはこのあとの行動について話し合った。
「今からだと、すぐに夜になります。夜の山中はただでさえ危険だ。乗り込むのは朝になってからのほうが確実です」
「別に朝まで待つ必要はねえ。夜のうちにおれが社まで行って、かたをつけてくる」
「邪神は遠くから火を操るんだろう? 村の人たちを人質に取られているような状態で、無茶はできないよ。こちらの動きに感付かれて、村に火を放たれたらおしまいだ」
「でも、朝まで待ってたら、生贄が到着しないことで不審に思われるかもしれないわ」
一気に決着をつけたい犬夜叉と、慎重に構えたい弥勒の意見が分かれる。
「どちらにせよ、生贄に選ばれた娘は何としても守らねばなりません」
犬夜叉と弥勒がなんとなく仔狐を見たので、七宝が身をすくませた。
「な、なんじゃ。おらに娘に化けろというのか? 狐妖怪同士対決させようというのか?」
「あたしが生贄の身代わりになるよ」
「珊瑚」
冷静に名乗りを上げた娘に、弥勒が驚いて責めるような眼差しを向けた。
「生贄として社におもむき、朝までの時間を稼ぐ」
「珊瑚、村の娘が何人も殺されているのですよ。私と犬夜叉が動き、おまえとかごめさまは村に残るべきです」
「大丈夫。法師さまと犬夜叉は、夜が明けてから社へ来て」
「しかし……!」
仮に身代わりを立てるとしたら、妖怪を相手に闘い慣れている珊瑚が適役だ。
珊瑚が言っていることは弥勒も頭では解るのだが、どうしても感情で納得できなかった。
「珊瑚。私は反対だ」
「でも、法師さま。邪神に近づくにも、これが一番手っ取り早い」
正論を向けられ、弥勒は口をつぐんだ。
「……では、どうやって身を守る」
「隠し武器をいくつか。飛来骨を持っていくわけにはいかないけど」
ある種の緊迫を孕んだ弥勒と珊瑚のやり取りを、仲間たちは言葉をはさめず、無言で見守っている。
「そうだ、櫛を貸しなさい」
「櫛?」
「櫛は“奇し”に通ずる。刻限までにこれに念を込め、おまえを守る道具としよう」
まっすぐな眼差しを向ける珊瑚に、弥勒は彼女を安心させるようにうなずいてみせた。
「数珠を手首に通していれば警戒されるかもしれんが、櫛ならば、おなごが持っていたところで怪しまれることはない」
他に打開策がないため、犬夜叉やかごめも、珊瑚が生贄の身代わりとなることをしぶしぶ了解した。
荷が置いてある部屋の隅に、弥勒と珊瑚は二人だけで移動した。
「法師さま」
「はい」
櫛を取り出した珊瑚は、彼にだけ聞こえるくらいの小さな声で、そっと言った。
「あたし、本当の贄になるつもりはない。戻ってくる。法師さまのもとに」
「信じている。だが、考えたくはないが、おまえの意思とは関係なく身を穢される危険がある」
「決して無理はしないって約束する。あたしの手に負えないと思ったら、闘わずに逃げる。山中に身を隠して、日が昇って法師さまが来てくれるまで、なんとかやり過ごす」
揺るぎない珊瑚の覚悟を感じ、弥勒は、無力感に苛まれながら、ただ彼女の手をじっと握りしめた。
* * *
戌の上刻。
辺りは闇に包まれている。
松明に先導された生贄の輿は山の入り口でとまり、生贄の娘はそこから歩いて山を登る。
輿から降りた珊瑚は、付き添ってきた村長と法師に向き直り、小さくうなずいた。
「行きます」
「どうか、よろしく頼みます」
村長が娘に頭を下げた。
難しい表情の弥勒は、懐から取り出した御守りの櫛を、珊瑚に手渡す。
「夜明けには、できるだけ早く我々も山を登ります」
「うん。待ってる」
珊瑚は大事そうに櫛を懐にしまい、白い被衣を輿の中から取り出し、頭にかぶった。
白い被衣は生贄のしるしだ。
山の社への参道は、塗りの剥げた朱塗りの鳥居が列をなし、社までの道を形作っている。
夜だというのに赤々とした灯火が、何百何千と続く鳥居に囲われた真っ暗な小径を照らしていた。──狐火だ。
灯火を見上げ、もう一度だけ弥勒を見つめてから、珊瑚は鳥居の中を歩き出した。
2012.4.19.