進めど進めど、そこは鳥居の隧道だった。
 珊瑚の行く道を照らす狐火は、まるで意思を持っているように彼女の歩みに合わせてゆらゆらと揺れ、彼女が通り過ぎたあとは、ひとつ、またひとつと消えていく。
 邪神に監視されているような、もしくは帰り道を閉ざされてしまうような不安に駆られ、珊瑚はわずかに眉をひそめた。
 そのようにして斜面を登り、鳥居が途切れたところに、朽ちた稲荷の社があった。
 闇は静かだ。
 静寂に閉ざされた中、社の全容を見ようと珊瑚は眼を凝らす。
──まだ、こんなに美しい娘が残っていたのか」
 全く気配がなかった闇の奥からそう声をかけられ、珊瑚は驚いて身をすくませた。
 参道から逸れたひときわ暗い木立の中に、切り株に腰掛けた仄白い人影がある。
 その人物の頭上に、ぽっと狐火が灯った。
 炎に照らし出され、白い狩衣と白い袴に身を包んだ、白い髪の若者の姿が浮かび上がった。頭には犬夜叉のような白い狐の耳。長い髪は無造作に首の後ろでひとつに結わえられている。
 瞳を上げた彼の視線と、立ちすくむ珊瑚の視線が絡んだ。
「おまえが稲荷の……?」
 低い声で問う珊瑚に、半妖は彫像のような冷たい表情のまま、そっけなく言った。
「村では半妖とか邪神とか言っているのだろう? だが、おれにも人並みに名がある。まさきと呼べ」
 凍えた月のような瞳は銀色だ。
 その無機質な瞳に、珊瑚は背筋にひやりとするものを感じた。

 柾は確かに神秘的な雰囲気を漂わせる存在であった。
 白い髪に白い衣、女よりも白い肌。
 袖括りの緒だけが朱色で、白一色の存在は、神に近い白狐を思わせる。
 彼について社の本殿に入った珊瑚は、埃っぽい床の上に置かれた高麗縁の畳の上に座るように指示された。
 柾によって、座した珊瑚の髪からそっと被衣が取り除かれる。
「名は?」
「珊瑚です」
「酒をついでくれ」
 珊瑚は、用意されていた瓶子を手に取り、盃を取って同じ畳に座った柾に向き直る。彼との距離があまりに近くて、息を呑んだ。
 自分で言い出したことだが、夜が明けるまでの時間の長さを思い、鼓動ばかりが早く聞こえた。

 至る所に灯る狐火が、とうに社としての役目を終えたはずの廃殿の内外を飾っていた。
 珊瑚が妖狐に酌をする室内にも、狐火が夢幻的な雰囲気を醸し出している。
「おまえは随分落ち着いているが、何のためにここへ来たのか解っているのか?」
 ぐいと盃を干し、白い妖狐が言った。
「稲荷への供物として」
「神の花嫁……と言えば聞こえはいいが、つまりはおれに捧げられる」
「解っている」
「みな、震えていたがな」
 そうさせたのはおまえではないかと、珊瑚は怒りを感じて唇を結んだ。
 望んでやってくるのであれば、誰が震えるだろう。
 酌をしながら、珊瑚は相手の様子を観察した。
 普段、犬夜叉を見慣れているせいか、普通に言葉を交わしている分には、珊瑚には柾がそれほど恐ろしい妖怪には見えなかった。
 生贄ではなく神の花嫁としてなら、一生を捧げる覚悟で山を登った娘だっているだろう。
 けれど──
 鋭くこちらを見た柾の瞳と視線がぶつかり、珊瑚ははっとした。
 銀色の瞳。
(これが人間に恐れられる原因なんだ……)
 同じ半妖でも、犬夜叉のようなあたたかみが全く感じられない瞳。
 妖怪や半妖に対して偏見がない珊瑚も、この銀の瞳には本能的な禍々しさを感じた。

「あれは」
 珊瑚が山へ入ってから、村長の家の前でじっと山を見つめていた弥勒が、唐突に声を発した。
 山の中腹辺りに小さな火が灯って見える。
 そばにいた村長が弥勒の視線をたどり、
「あれは、生贄を受け取ったという合図です」
 と応じた。
 生贄の娘が到着したことを示すために、山の社の辺りに狐火が一晩中灯るのだという。
「奴が山の稲荷に住みついてしばらくの間は、愚かにもあれを豊作の験だと思い込んでおりました」
「弥勒さま、少し休んだほうがいいわ」
「いえ、私はここにいます」
 心配げなかごめに弥勒は頑なに首を振った。
「だーから、最初から朝まで待たずにおれが行けばよかったんだよ。今からでも間に合うと思うぜ」
 ぶっきら棒な口調だが、犬夜叉なりの気遣いを感じ、弥勒はふっと疲れたように微笑した。
「面目ない。しかし、無事に生贄を受け取ったのなら、下手に邪神を刺激しては却って珊瑚が危険かもしれません」
 犬夜叉とかごめは気遣わしげに顔を見合わせた。
 弥勒の精神が乱れている今の状態では、闇雲に動かないほうがいいかもしれない。
「弥勒さま、山の火は交替で見張りましょう? 夜明けにすぐ動けるように、少しでも仮眠を取ったほうがいいわ」
 弥勒は無言でうなずいた。
 小さな灯火は、山を幻想的に見せていた。

 髪に頬に、戯れに伸びる手指をかわし、珊瑚はさりげなく話題を繋ぐ。
 決して多弁なほうではないが、こういうときの退治屋としての呼吸は見事なものだ。
「稲荷の使いではなくて、半妖ってのが本当?」
 凍るような瞳で、柾は斜交いに珊瑚を見た。
「本当だ。ここへ来た娘に寝物語に語ったことがある。おまえも逃げ出した娘から聞いたのだろう?」
 差し出された盃に、珊瑚は酒をつぐ。
 酔い潰せるとは思わなかったが、時間稼ぎにはなる。
「母は人間だった。だが、産まれた子供は髪が白く、狐の耳と妖の眼を持っていた。村人たちからは白眼視され、あいつは幼いおれを捨てて村から逃げた」
 珊瑚の瞳が翳る。
「だから、人間に復讐しているの?」
「何十年も昔のことだ。今となってはどうでもいい。ただ、独りでいることに疲れた。おれは自分を人間だと思っていても、誰もがおれの姿に畏れ、怯える」
 妖狐の指先が、珊瑚の髪を撫で、腕をなぞり、瓶子を奪った。
「人間とは似て非なるもの。それでも、ともに生きてくれる人間の女が欲しい」
 柾の腕がぐいと珊瑚を抱き寄せた。
「おれと契りを結ぶか、死ぬか。どちらかを選べ」
 たじろぐことなく銀の瞳を見つめ返し、珊瑚はゆっくりと答えた。
「おまえは半妖。それは解った。じゃあ、あたしは何? おまえがそれに答えられたら、あたしはおまえが望む通りになってもいい」
「おまえは珊瑚だ。さっき、自分でそう言っただろう」
「それは名前だ。もし、今ここでおまえが別の名をつけたら、あたしは珊瑚じゃなくなる。それはあたしの本質じゃない」
 妖怪としても人間としても生きられない存在。
 それは犬夜叉を彷彿とさせる。
 だが、犬夜叉はこんなふうにはならなかった。
 桔梗が、かごめが、彼の心をほぐしていったから。
 誰かがこの半妖の心に寄り添ってやるべきだと思ったが、しかし、それをなすのは珊瑚ではない。
「おまえの意思など関係なく、おれはおまえを自由にすることができるのだぞ」
 腕の中に抱き寄せた珊瑚の瞳を脅すように見据え、妖狐は珊瑚に顔を近づけた。
「……」
 ふいと珊瑚が顔を背ける。
 乱暴に顎を掴まれ、顔を固定され、いよいよ隠し武器を使おうかと珊瑚が逡巡したとき、珊瑚の唇を奪おうとした妖狐が何かに弾かれ、驚いて彼女の身体から手を離した。
「……!」
 珊瑚ははっとした。
 法師さまが持たせてくれた櫛──
「……何をした」
 荒々しく手首を掴まれる。
「何も」
 相手との距離を測りながら、珊瑚は彼から眼を逸らさずに言った。
 櫛の結界は珊瑚の拒絶の意思に反応するようだ。
「おまえを力ずくで犯すことだってできるのだぞ。そのあと、嬲り殺しにすることも」
 彼女の肢体を押さえ込み、柾は牙を剥いた。刹那、口吻だけが妖としての狐のものに変わる。
 獣の口がかっと開き、珊瑚の喉をめがけて牙を突きたてようとしたそのとき、またしても結界に阻まれ、彼は弾き飛ばされた。
「つっ……」
 人の顔に戻った唇に血が滲む。
「あたしが何者なのか、答えなければ触れさせない」
 毅然として言う珊瑚に、柾も従うしか術はなかった。

 一晩中灯ると聞いた山の火を、弥勒はじっと見つめていた。
 その小さな火が、ほんのわずかに、不自然に揺らめいたような気がする。
「そろそろ交替だぜ」
 山を見つめる弥勒のもとへやってきた犬夜叉が声をかけた。
「待て、犬夜叉。今、火が揺れた」
「揺れる? 火は揺れるものだろ?」
 だが、犬夜叉が山の火に眼を凝らした瞬間、あまりにも呆気なく、火は消滅した。と同時に、何かが一直線に闇を裂いた。
「!」
 鉄砕牙を一閃させ、犬夜叉は飛来したものを斬り捨てた。
「また、矢文か」
 両断した矢を拾い上げ、くくりつけてあった白い紙を手に取ろうとしたが、それは紙ではなかった。
「おい、弥勒……これは珊瑚の元結いじゃねえか?」
 犬夜叉の言葉に弥勒は驚いて眼を見張った。
「確かに、珊瑚のものだ。まさか、じゃあ……珊瑚は──
 山の火が消えたことと重なり、墨のような絶望がかすめ、突如、呼吸ができなくなる。
「そんなはずはねえ! おまえが持たせた櫛がある限り、邪神は珊瑚に触れられないはずだ」
 絶句する弥勒の恐怖を、犬夜叉は大声で否定した。
 村は静まり返っている。
 邪神の眼から逃れ、その禍を避けようとするかのように。
 静かであればある程、生贄の犠牲をも黙認しているように感じられ、たまらなくなって、弥勒は眠る家々に向かって叫んだ。
「起きろ! 誰も寝てはならん! 今宵は庚申。眠れば、旅の娘を見殺しにした罪を、三尸の虫が天に告げるぞ!」
 これは八つ当たりだ。許せないのは自分自身だ。罪は己のものだと解っている。
 理屈で計算して動こうとして、珊瑚一人を危険な場所へ送り込むこととなった。
 弥勒の声を聞きつけ、驚いたかごめが村長の家から弓矢と手燭を持って飛び出してきた。そして、そこにいる犬夜叉に駆け寄った。
「どうしたの。庚申、って何?」
「人間の体内にいる三種類の虫が、庚申の夜、眠っている間にそいつの悪行を天帝に告げに行く。だから、その日は三尸の虫が身体から抜け出さねえように、徹夜をするんだよ」
 珊瑚の元結いを握りしめ、弥勒は闇に閉ざされた山をじっと見つめている。
 彼の背後に、犬夜叉とかごめはそっと近づいた。
「けど、今日は庚申待の日じゃねえはずだ。弥勒が、こんなに取り乱すなんてな」
「犬夜叉、あそこ……!」
 かごめの声に顔を上げると、山の登り口の辺りに、微かに灯火が揺れているのが見える。
 弥勒は息を呑んだ。珊瑚をいざなった狐火だ。
「来いって言ってるの……? あれが村の人を呼んでいるのなら、誰かが山の社に行くまで、珊瑚ちゃんは無事ってことじゃない?」
 犬夜叉が法師を見た。
「おれが行くといっても、無駄なんだろうな」
「すまん。醜態を演じたな……だが、行けるものなら、私が珊瑚を迎えに行きたい」
「万が一のときはどうする。もう、狐火で知らせてはくれないぜ」
「何かあったら、自分の腕を傷つける。その血の臭いを追ってきてくれるか、犬夜叉」
 弥勒の中で結論のようなものが固まったことを感じ、犬夜叉は無言でうなずいた。

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2012.4.26.