犬夜叉とかごめに村の守りを託し、弥勒は、狐火を追って山の入り口へと急いだ。
 揺れる炎にいざなわれ、麓から社へと続く何百何千もの朱塗りの鳥居の下をくぐり、ただひたすらに山道を駆けた。
 珊瑚の無事だけを祈る。
 どれだけ登っただろうか、不意に連なる鳥居の道が切れ、暗闇の中にひっそりとした廃殿が、弥勒の視界に朧な姿を現した。
「ここか……」
 弥勒は社の本殿へと向かう。
 人の気配を求め、社の造りから見当をつけ、明かりの灯る部屋に飛び込むと、果たして、そこに捜し人はいた。
「!」
 宙に浮かぶ炎に四方を囲まれ、高麗縁の畳の上に、静かに座している。
 彼女の正面には白一色の妖狐が──狐の妖だと耳で判る──胡床に座って彼女を見つめていた。
「珊瑚……!」
「法師さま──!」
 振り向いた珊瑚の顔が、弥勒を認め、微かに安堵にゆるむ。
 妖狐が法師を屹と見た。
「村の者ではないな。おれを始末するために雇われた法師……といったところか」
 弥勒が珊瑚に近づこうとすると、威嚇するように彼女を囲む火の勢いが激しくなった。
「娘に近づくな。この娘に結界を張ったのはおまえだな。だが、触れられずとも焼くことはできるぞ」
 弥勒の眼が鋭く妖狐を見据えた。
「すぐには珊瑚を解放してはもらえんのだろうな。私が呼ばれたわけは?」
「この娘が、珊瑚が妙な謎掛けをした。てっとり早くすませるため、答えを知る者を招いたまで」
「謎掛け?」
 珊瑚を一瞥した弥勒は、時間稼ぎのためだと理解した。
「他力本願とは恐れ入る。それでは珊瑚の心は動かせまい」
「構わぬ。答えさえ得られれば、珊瑚はおれのものになるとはっきり言ったのだからな」
 弥勒はちらとたしなめるような眼で珊瑚を見た。
 いくら陽動とはいえ、言いすぎではないかと思ったのだが、珊瑚は大丈夫というように小さくうなずいた。
「答えろ、法師。この娘は何者だ」
 弥勒は躊躇った。
 何者──
 妖怪退治屋という言葉が脳裏に浮かんだが、まさかそれを言っては、今度こそ珊瑚の生命が危ないだろう。
 だが、法師の逡巡を見透かしたように、珊瑚は穏やかに彼を見た。
「いいよ。言って」
 弥勒は錫杖を握りしめ、少し考える。
「珊瑚は……」
 そして言った。
「女だ。生業に誇りを持ち、しっかりと生きている女。何より珊瑚は……私の“心”だ」
「“心”?」
 その言葉を聞き咎め、柾が愕然と胡床から立ち上がった。
「おまえ──おまえはいったい。まさか、珊瑚の」
「私と珊瑚は相愛の仲だ」
 射るような妖狐の視線を正面から受け止め、弥勒は答える。
 柾は鋭い視線を弥勒から珊瑚に移した。
「法師の答えを肯定するか?」
「肯定も否定もない。それは法師さまにとって、真実のあたし。でも、おまえにとって、あたしは何?」
 柾は言葉をつまらせた。
「生贄? 自由になる人形? 飽きたら殺せる伴侶?」
 淡々とした珊瑚の口調に、柾は何か得体の知れない感情に追いつめられていくように感じて、狼狽えた。
 珊瑚はゆっくりと首を振る。
「違う。──あたしは、“人間”。ただそれだけのことなんだ」
 諭すように訴えたが、釈然としない柾の様子を見て、珊瑚はさらに続けた。
「あの人は何か解る?」
 と今度は法師に眼を向けて問うた。
「法師も……人間ではないのか」
「そう、人間。でも、あたしにとって法師さまは“愛”。愛そのもの。あたしの心の大部分をあの人が占めている」
 正座していた珊瑚はその場で静かに立ち上がった。
「おまえはあたしが人間だから、欲した。愛を求めながら、自分からは愛そうとしなかった」
「違う……!」
 刹那、珊瑚を取り囲む炎が激しく揺れた。
「今はおまえが欲しい。珊瑚という人間の女が欲しい」
 目の前の娘に彼はすがるように愛を乞う。
「おれが求める人間が、おまえでは駄目か?」
「あたしはおまえとともに生きることはできない。もう、そうしたい人を見つけてしまったから」
 四方を囲む狐火をすりぬけ、珊瑚は自分から柾に近づいた。そして、妖の銀の瞳をまっすぐに見つめて言った。
「柾。あたしは一人の半妖を知っている。おまえとよく似た姿をして、長い間孤独に耐えて……でも、その人は愛する人を見つけることができた」
 娘の頬に触れようとした柾の手を捉え、珊瑚はその手を両手で包み、自らの頬に当てた。
 手を放して白すぎる彼の顔を見上げると、櫛の結界に阻まれてできた、唇の傷が目に入った。白い肌に滲む紅い色が痛々しい。
「あたしはおまえを恐れない。心が人ならば、半妖でもおまえはきっと人になれる」
 彼の腕に手を掛けた珊瑚が不意に背伸びをした。
 弥勒ははっと息を呑む。
 白い妖狐の唇の端に──
 わずかに血の滲んだその場所に、珊瑚は癒しを与えるように、そっと自らの唇を触れさせた。
「……はなむけ」
 短く発せられたひと言に、呆然としていた柾が我に返ったように珊瑚を見た。彼の手が誘われるように珊瑚の身体を捉えようとしたが、珊瑚はすっと身を引いた。
「二度と、麓の村には近づかないと誓って」
 大きく眼を見張る柾が何か言葉を発しようとする前に、弥勒が珊瑚に駆け寄った。
「待て、珊瑚! それはあまりにも危険だ」
 殺戮を繰り返すことで村を支配してきた妖をそのまま野に放つなど、村の立場からは考えられない。
 無論、弥勒の危惧するところは珊瑚にもよく解っていた。
「法師さま。柾がやってきたことは許せないことだ。でも、あたしには柾を裁く資格がない。殺戮を繰り返した者が、その生命を差し出すことでしか罪を償えないのだとしたら、あたしは……」
 琥珀のことを言っているのだと知り、弥勒は何も言えなくなる。
 苦しげな珊瑚の肩に手を乗せ、弥勒はやさしくささやいた。
「解った。珊瑚が一番いいと信じる方法を選ぼう」
 すがるように顔を上げた珊瑚を安心させるためにうなずき、弥勒は妖狐のほうを見遣る。
「殺戮をやめ、遠くへ行くと誓うか?」
「それが珊瑚の望みなら、おれはもう、二度とこの地へは戻らない」
 柾は腰に差していた小柄を抜き、首のすぐ後ろの辺りで、自らの束ねた長い髪を切った。
「おれが死ななければ、おまえを雇った村人たちが納得しないんだろう? これを持ち帰れ。この先、稲荷が生贄を求めないという印だ」
 柾が差し出す結ばれた白い髪を法師が受け取る。
「確かに預かった」
 麓の村から見えていた社の火は、愛し方を知らない半妖なりの、神の花嫁を歓迎するために用意された灯火だった。
 珊瑚への怒りから、今宵はその火を消してしまったが、再び彼は無数の狐火を集め、社のあちこちに灯し始めた。火の勢いが少し強い。
「何をする気?」
「社を燃やす。心配するな、火を操ることには長けている。山火事にはならん」
 そして、柾は珊瑚を見た。
「もっと早くに出会っていれば」
「そうだね。でも、どんな出会い方をしても、あたしは法師さまを選んだと思う」
「……そうか」
 火が燃え広がる。
 切られた柾の白い髪が頬にかかり、熱に煽られ、揺れていた。
「おまえたちの勝ちだ。ここにいると焼け死ぬぞ。早く鳥居をたどって麓まで下りろ」
 火の粉が舞い散る中、幻のように、白い妖狐は炎に紛れて姿を消した。
 それが、柾を見た最後だった。


 人間の弥勒と珊瑚は燃え盛る社の中にはいられない。
 炎をさけ、熱をさけ、二人は参道の鳥居のところまで戻ってきた。
 速足で坂を下る。
 夜明けはもうすぐ。
 まだ闇が空を支配しているが、連なる鳥居の下をくぐっていけば、迷うことはないはずだ。
「全くおまえは」
 火の気配から遠ざかった頃、ため息まじりに弥勒が言った。
 彼は妖狐の髪を珊瑚に手渡し、懐から彼女の元結いを取り出すと、解かれていた彼女の髪を結んだ。
「もう駄目かと思いましたよ。社に一晩中灯るはずの火が消えたとき、私がどんな気持ちだったか解りますか?」
「心配かけてごめんね」
 妖狐の髪を大事そうに袂に入れて、珊瑚はほっとしたように弥勒に向き合い、彼の顔を見上げた。
「でも元結いを送ったから、あたしが法師さまを呼んでるって伝わった?」
「逆に寿命が縮まりましたよ!」
 弥勒は反射的に珊瑚の身体を抱きしめた。
 珊瑚はわずかに眼を見張ったが、そっと彼の胸に寄りかかり、彼の背を抱き返した。
「法師さま」
「なんです?」
「これでよかったと思う?」
 邪神か、妖怪か、人間か──己が何者か解ったとき、柾は自分の居場所を得られるのではないかと珊瑚は思う。
「人間であろうとするなら、柾は必ず犯した罪の重さに気づくはずだ」
「ああ。そうだな」
 弥勒は珊瑚を抱く腕にわずかに力を込めた。
「もし、私という存在がなければ、別の答えを出していましたか?」
「ううん。やっぱり柾とは一緒に行けない。あたしは柾を愛していないし、同情で一緒になることはできない」
「なら、それが正しい答えなんですよ」
 それにしても、と弥勒は抱いている娘から少し身を離して、彼女の瞳を覗き込んだ。
「この、浮気者」
「え……っ?」
「やりすぎだ。唇を許すなんて」
 薄闇の中でも彼女が頬を染めたのがはっきりと解った。
「あの、だって……法師さま、ごめ……」
「私が同じことをしたら、おまえは何日も口を利いてくれないんじゃありませんか?」
 そこにあったのが同情であることは知っている。
 けれど、今、湧き上がる感情を抑える術はひとつしかなかった。
「おまえは……本当に無茶をする」
 薄暗い闇の中、表情を確認するために顔を近づけ、弥勒は甘くささやいた。
 間近でじっと見つめられ、速まる鼓動に珊瑚の息がつまりそうになったとき、不意に鳥居の柱に背を押しつけられて、奪うようにして唇を塞がれた。
 彼らしくもない荒々しい口づけに、珊瑚は気が遠くなりそうだった。

 少し、東の空が白んできたようだ。
 列をなす鳥居の柱越しに、朝陽が昇ろうとしている光景が見える。

 長かった夜の終焉を迎え、しばらく二人はじっと抱き合ったままでいたが、突然、珊瑚がはっとなって顔を上げた。
「法師さま、夜明けだよ。そろそろ犬夜叉が山を登ってくる頃じゃない?」
「構うものか」
「でも、あの、こんなところ見られちゃったら……って、ん──
 もう一度だけ。
 これは、他の男に唇を許したおまえへの罰なのだと。
 二度と離さないと──そんな想いを伝えるために、弥勒は珊瑚に唇を重ねた。

≪ 第二話 〔了〕

2012.5.3.

「誰も寝てはならぬ (「トゥーランドット」より)」 プッチーニ