妖怪退治の礼金である銭緡ぜにさしを受け取り、琥珀は、依頼人に軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。確かに」
「いやあ、あんた、若いのにいい腕だねえ」
「恐縮です」
 ひと仕事を終え、帰り仕度をしていると、依頼人である町の小間物屋の主人は考え考え、琥珀に声をかけた。
「なあ、琥珀さん。うちの店が品を納めているある郭なんだが、最近、不気味なことが起こると言っておってのう。ひとつ、そこへも行ってもらえんかな?」
「郭ですか」
「遊女の部屋に夜な夜な出るそうな。妖怪らしいからどうにかせねばとそこの遣り手が言っておってな」
「はい」
「法師と半妖という珍しい組み合わせの妖怪退治屋を紹介されたが、べらぼうに値が張るからそこには頼みたくないと渋っておっての」
「……はあ」
 すぐに知っている顔が二つ脳裏に浮かび、琥珀は苦笑した。
「あんたの仕事なら、あそこの遣り手も気に入るだろう。この近くだ。どうかひとつ」
 荷物をまとめた琥珀は傍らに控えていた小さな猫又を肩に乗せ、気軽に言った。
「いいですよ。とりあえず行ってみます」
 これから行く仕事場で、まさか、その噂の法師と姉の派手な夫婦喧嘩に巻き込まれようとは、予想だにしない琥珀であった。

こうもり

 晴れた日の午後、おとなう者の声に珊瑚が自宅の玄関に顔を出すと、そこにいたのは八衛門狸だった。
「あれ、どうしたの、ハチ? 法師さまと一緒に来たの?」
「いえ、それが……」
 ハチは少し困ったような表情で口ごもった。
 弥勒は仕事の出先から夢心の寺へ寄り、今日の夕方には帰宅する予定である。
「その弥勒の旦那ですが、帰りが少し遅れると……」
「そうなの?」
「たぶん、明日の昼になると」
「なんで?」
 ハチはますます困った顔をした。
「ちゃんと伝えましたよ。では、あっしはこれで……」
 帰りかけた狸の腕を、珊瑚はがしっと掴まえた。
「で、法師さまは今どこにいるの? 夢心さまのところにもう一泊するの?」
「いや、それが集真の兄貴と町へ行くとかで……って、あわわ」
 慌てたハチが口を押さえた。
「集真法師さま?」
 集真という法師は弥勒の昔馴染みの雲水で、珊瑚とも面識がある。
「男同士で旧交を温めたいのかな。うちに来てくれてもよかったのに」
「ね、姐さん。集真の兄貴と一緒だということは、旦那に口止めされていたんです。聞かなかったことにしてください」
「どうして?」
「そりゃあ、集真の兄貴が町に行くといえば、行き先は郭と決まっているからで……あわわ!」
 にっこりと狸の顔を覗き込む珊瑚の笑顔が妙に怖い。
「ふーん。それも聞かなかったことにしてほしいんだ? それじゃあ、代わりにあたしの頼みを聞いてほしいんだけど」
「は、はい……」
 化け狸は大汗をかいて神妙にうなずいた。

* * *

 八衛門狸に頼んで町まで運んでもらった珊瑚は、妖狸を山へ帰し、郭らしき建物を探して町を歩いた。
 まだ夕刻には間があり、人の往来は多い。
 郭に法師がいなければ、それでよい。
 いれば、即刻連れて帰る。
 往来を一人で歩いていると、不意に背後から小さなものが走ってくる気配と、
「みう」
 愛らしい鳴き声が聞こえ、珊瑚は驚いて振り返った。
「雲母?」
「みぃっ」
 嬉しそうな鳴き声とともに珊瑚の腕に飛び込んできたのは、二股の尾を持つ、愛くるしい小猫であった。
「雲母、おまえ、どうしてここにいるの?」
 珊瑚の表情が嬉しい驚きに彩られ、顔をすり寄せてくる猫又の小さな躯をぎゅっと抱きしめた。
「雲母ー」
 向こうから猫又の名を呼び、こちらへ駆けてくる少年を見て、珊瑚はますます大きく眼を見張る。
「琥珀……!」
「えっ、姉上?」
 現れた少年は、間違いなく弟の琥珀であった。
 嬉しそうに珊瑚は少年の頬に手を伸ばした。
「こんなところでおまえに会うなんて。背が伸びた? 元気そうだね。よかった」
「うん、姉上も」
 雲母を間に、姉弟は再会を喜び合う。
「でも、どうしてこんなところにいるの? 義兄上は?」
「うん、ちょっとね。おまえはどこかへ行くところ?」
「おれは郭に用があって」
「郭──っ?」
 琥珀の口からそんな単語が出てくるとは思わなかった。
 珊瑚は慌てたように琥珀の肩に手を置くと、じっと彼の瞳を見つめて真顔で言った。
「待って。まだ早い」
「え……?」
「法師さまの影響か知らないけど、あと数年後でも遅くない。それに、琥珀なら、それまでにいい人ができると思う」
 真正面から恐ろしく真剣に諭されて、琥珀は真っ赤になった。
「違うって、姉上! 仕事だよ。郭に妖怪が出るらしいんだ」
「……あ、仕事」
「おれはそういう遊びしないから!」
 照れたようにふいっと背を向けて歩き出そうとする琥珀のあとを、珊瑚も追った。
「待ってよ。あたしも行くから」
「おれは義兄上じゃないんだから、監視はいらないよ」
「そういう意味じゃないってば」
 弟をなだめつつ、珊瑚は、まだまだ少年めいた琥珀の様子にどこかほっとするものを覚えた。

 町外れに瀟洒な建物が、二、三軒並んでいる。
 それぞれの店の前には客引きの若い遊女たちが通り掛かった男たちに華やかに声をかけていた。
「あそこ?」
「うん。扇屋って郭。……ああ、一番奥だ」
 村娘風の若い女に少年と猫という、どうにも郭にはそぐわない二人と一匹だったが、琥珀の言葉に従って、その店の前で珊瑚は足をとめた。
 そして扇屋の前に立っていた若い男を見て、あっと声を上げた。
「集真さま!」
 法衣姿のその青年は、珊瑚の知っている人物であったのだ。
 珊瑚の声を聞き、青年法師はぎょっとしたように身構えた。
「えっ、珊瑚?」
 有髪の法師は名を集真という。
 弥勒の弟弟子であり、かつ、兄弟子の妻である珊瑚に仄かな想いを寄せているのだが、珊瑚はもちろん、そんなことには気づいていない。
「うわ、ハチがしゃべったな」
「違います。あたしは弟の妖怪退治を手伝いに来たんです」
 しれっと答えた珊瑚が琥珀の身体を前に押し出したので、琥珀は慌てて頭を下げた。
「珊瑚の弟の琥珀です」
「弟……? 珊瑚の? ってか、妖怪退治?」
「前に、あたしは妖怪退治屋だって言ったでしょう?」
「ああ、確かにそんなこと言ってたな」
 わずかに眼を細め、珊瑚はさりげなく周囲を窺う。
「集真さまがここにいるってことは、まさか、法師さまもここに?」
 探るように言うと、集真は力いっぱい否定した。
「いやっ! おれだけだ。弥勒はいねえ」
「そうですか」
 珊瑚はそれ以上詮索せずに、弟を促し、堂々と郭の入り口に向かった。
「珊瑚、どこへ行く?」
「弟と仕事です。じゃあ、またあとで」
 青年法師に向かってにっこりと会釈する姉を、琥珀は不審そうな目付きで眺め遣る。
「……姉上。なんか変なことに巻き込む気じゃないだろうね」
「なに言ってるのさ。せっかく会えたんだから、一緒に仕事がしたいだけだよ」
 郭の人間に、小間物屋の主人からの紹介で、遣り手に会いに来た妖怪退治屋だと琥珀が名乗ると、二人と雲母はすぐに店の奥へと案内された。


 扇屋の一番人気の遊女。
 名を琴音という。
 その琴音の部屋で、琴音と対座し、弥勒は尤もらしい顔を作っていた。
「……というわけでして、集真は出家し、もうここには来られないのです」
「何を言ってんだい。集真の旦那はもともと法師じゃないか」
「ですから、改めて、心清らかに御仏に仕えるため、おまえとはもう会えないと──
「それなら、なんで自分でそう言いに来ないのさ。旦那だって法師だろう? 出家がどうのって、集真の旦那がここに来られない理由にはならないよ」
 こんなふうに、先程から二人は噛み合わない会話を延々と続けている。
 まだ二十歳になっていないだろう琴音は、遊女とは思えないほどの初々しさを持つ儚げな美女であった。
 赤を基調にした華やかな小袖を身にまとい、組紐で髪を高く結い上げて髷を作っている。
 弥勒は悩ましげに吐息を洩らす。
「どちらにしろ、集真は雲水なのですから、遊女を身請けなどできません」
「集真の旦那のほうが、あたしを身請けするって言ったんだ」
 要は別れ話である。
 もちろん、弥勒は部外者で、集真と琴音の別れ話であった。
「それに、あたしはどうしてもここを出たい事情があるんだ」
「おまえほどの遊女なら、集真でなくとも、他に身請け話もあるでしょう」
「そりゃあね」
「では──
「でも、どうせなら、好いた方と一緒になりたいじゃないか」
 琴音はつんとそっぽを向いた。
 そこへばたばたと駆け込んできた者がある。
「旦那!」
 琴音の顔がぱっと華やいだ。
 戸板を開けて、突然、部屋へ入ってきたのは、他ならぬ集真であった。
「何してるんだ、集真! おまえが出てきたら、話がややこしくなるだろう」
「それどころじゃねえ。珊瑚が来てるぞ!」
 驚いて弥勒は立ち上がった。
「珊瑚が?」
「なんか妖怪退治とか言ってたが、よく解らん。おまえが一緒だとは言ってねえ」
 ため息をついて、弥勒はそわそわと前髪をかきあげた。
「珊瑚には内密にという約束だろう! こんなところで鉢合わせてみろ。いらぬ誤解を招く」
「おれに言っても仕方ねえだろう」
「集真の旦那ってば!」
 言い合う二人の法師の間に琴音が割って入り、甘えるように集真を見た。
「つれないじゃないですか。久しぶりに来てくれたかと思えば、もうあたしとは会わないですって?」
「ああ、琴音。今はそれどころじゃなくて」
 琴音の手を振りほどこうとした集真に恨めしげな眼差しを投げ、彼女はすぐそばにいる弥勒の腕にしがみついた。
「だったら、こっちの旦那に乗り換えますよ! いいんですか!」
「やめなさい。私には妻がいます」
「じゃあ、集真の旦那にも妻がいたっていいじゃないか」
「いや、そういう話でもなくて」
「とにかく、旦那方、今夜は泊まっていってくださいな。弥勒さま、でしたっけ? 旦那も好きな子を選んでください」
 琴音が大きく手を打つと、すぐに酒と膳が運ばれてきた。
 綺麗所が何人も、静々と酒器や膳などを持ってやってくる。
 その中のひときわ美しい女を見て、弥勒は愕然とした。
 水色に黄色や若緑の幾何学的な模様の入った粋な小袖をまとい、髪を高く結い上げ、髷に簪を挿したその遊女は紛れもなく珊瑚だ。だが、瞼の他に唇にも紅をさし、遊女の装いを凝らした彼女を、すぐに珊瑚だと見抜ける者は少ないだろう。
「すげえ美女がいるぞ」
 呆気にとられている弥勒に集真がささやいた。
「おれはあのおんなにする」
「まっ、待て。あれは駄目だ、集真」
「なんで」
「あれは珊……」
「珊瑚そっくりだからいいんじゃねえか。本人でなければ、弥勒には関係ねえ話だろう」
 その水色の小袖の女を呼び寄せた集真に、琴音が嫉妬の目を向ける。
「ちょっと、集真の旦那……!」
「おれはおまえに酌を頼む」
「はい」
 と集真に答えた珊瑚は、弥勒のほうを見ず、眼を伏せていた。
 膳を運び終えた遊女たちが珊瑚を残して部屋を去る。
 部屋には、二人の法師のための膳と酒の用意が整った。
 珊瑚が手招きする集真の隣へ行こうとしたとき、かっとなった弥勒が思わず珊瑚の腕を取って、彼女の身体を抱き寄せた。
「やめろ、集真。おれのだって言ってんだろう!」
 だが、抱き寄せた珊瑚がぼそっとつぶやくのを、法師は聞き逃さなかった。
「ふーん。こういうところで、女、取り合ったりするんだ……」
 珊瑚の顔色をちらりと見て、弥勒は蒼ざめた。
 そんな弥勒に集真が小声でささやく。
「いいじゃねえか。本物には手を出さねえから」
「集真、本物だ」
「え?」
「おまえ、さっき外で会ったんだろう。これは本物の珊瑚だ」
「……は?」
 珊瑚によく似た美しい遊女を、集真は穴のあくほど見つめた。
 彼女は冷たく弥勒から離れ、
「あたしはこちらの法師さまのほうがいいです」
 と、集真の後ろにつつっと隠れた。
「珊瑚、拗ねるな。私にはおまえだとすぐに判りましたよ」
「“おれの”とか言って口説くんだ……」
「いや、それはおまえだから──!」
 彼女からすれば、集真を外に待たせ、郭一の遊女と弥勒が二人きりで密会していたように見えているのだから、当然、怒っている。一方、琴音にしてみれば、馴染みの客を新顔の遊女に奪われた形だ。
「見ない顔だね」
 琴音は珊瑚を値踏みするように眺めまわす。
「新入りのくせに、あたしの客を横取りするんじゃないよ。下がりな」
「待て、琴音。これは遊女ではない」
 珊瑚を叱咤する琴音を弥勒が制しようとしたとき、廊下に面した戸が少し開き、その隙間から小さな猫が飛び込んできた。
「雲母!」
 弥勒が驚く。
 そのあとに大きく戸が開いて、琥珀がひょいと顔を覗かせた。
「ここ、琴音さんの部屋ですか?」
 彼は退治屋の装束をまとっている。
「妖怪退治屋です。琴音さんの部屋に出るという妖怪の退治を依頼されました。……あ、姉上、もう来てたんだ。早いね」
 毒気を抜かれた一同は、ぽかんと少年と猫又を眺めた。

後編 ≫ 

2020.3.5.