面食らったように、弥勒は郭にいる珊瑚と琥珀を見比べた。
「え、なんだ? 本当に妖怪退治の仕事だったのか?」
「そうでなければなんだと思ったのさ」
 珊瑚が小声で突っ込む。
 琴音はほっとしたようだった。
「あのけちん坊の遣り手、やっと退治屋に依頼してくれたんだね」
「どういうことだ、琴音」
 集真が問うと、琴音は慣れた仕草で弥勒と集真に膳を勧め、自らは集真の隣にしなやかに座して酒器を持った。
「出るんですよ、あたしの部屋に」
「妖怪が?」
 琴音はうなずく。
「毎夜、真夜中に。もう、あたし、怖くて怖くて、早く旦那に身請けしてもらって、ここを出たくて」
「……」
 身請けしてもらうことより郭を出ることのほうが目的だと言わんばかりの琴音の口調に、集真は憮然と盃につがれた酒を呑んだ。
「あ、でも、集真の旦那に身請けしてほしかったのは本心ですよ?」
 集真の肩に、琴音は婀娜めいた所作でしなだれかかった。初めての郭で、初めて見た遊女のそんな様から琥珀は目を逸らし、微かに赫くなっている。
「え、えっと、琴音さん。今日は妖怪退治のために亥の正刻までには店を閉めるそうです。妖怪の話を聞かせてほしいんですが」
「ああ。ところで、退治屋さんとそっちの旦那とはどういう関係だい?」
 盃を手にした弥勒が、珊瑚に徳利を持たせて自分の隣に座るように促しているが、珊瑚はそれに頑として応じようとしない。よそよそしくもどこか甘やかな二人のやり取りを、琴音は怪訝そうに眺めている。
「遊女に化けているのはおれの姉です。おれたちは妖怪退治屋で、弥勒さまは姉の夫です」
「へえ、夫婦なんだ。偶然だねえ」
 偶然なわけあるか、と、弥勒は苦々しく琥珀のほうを向いた。
「琥珀、珊瑚はどうしてこんな格好をして、ここにいるんです?」
「堅気の女がこんなところにいたら目立つからと……まさか、義兄上の様子を探るためなんて思わなくて」
「姉弟そろって何か勘違いをしているようですな」
 弥勒はわざとらしく咳払いをして、珊瑚の装いを改めて眺め遣る。
 いつもの雰囲気とは全く異なるが、あでやかな珊瑚は眼を見張るほど美しい。彼女がこんな姿をしていることに、弥勒は少しむっとした。
「にしても、遊女に化けるというのは行き過ぎではないか? 他の男に見初められたらどうする気だったんだ」
「裏方ではあたしは退治屋だって言ってあるし、法師の客の部屋に運ぶ膳だっていうから、あたしも運ばせてもらったんだ」
「私を探しに来たんだろう? ハチに聞いたのか知らんが、何故もっと私を信用しない?」
「実際、郭にいたじゃないか。探されて困ることでもしてたんだろう?」
 放っておいたらいつまでも続きそうだ。
 珊瑚は弥勒とは距離を取ってちょこんと座り、徳利を差し出す弥勒からは頑なに顔をそむけている。
「じゃあ、弥勒の旦那にもあたしが酌を……」
「駄目っ」
 けれど琴音が立ち上がろうとすると、いきなり珊瑚が弥勒の盾になるようにして叫んだので、弥勒も琴音も集真も眼をまるくした。
「う、うちの人を誘惑しないで!」
 言いながら、真っ赤になってしまった珊瑚を弥勒が後ろから、がばっと抱きしめる。
「やっぱり可愛いなあ、おまえは」
「くそ。見せつけやがって」
 不貞腐れたように集真が盃の酒をあおった。
 琥珀は目のやり場に困っている。
「琴音さん、妖怪の話を!」
「ああ、ごめんね」
 琴音が語ったところによると、妖怪は蝙蝠の群れらしい。
 それはひと月ほど前から毎晩現れるようになった。
「最初は一匹二匹だったのが、だんだん大きな群れになっていってね」
 蝙蝠たちが現れるのはいつも夜中、琴音の部屋だった。
 得物を持たせた若い衆に追い払わせてみても、一匹たりとて捕まえることも傷つけることもできないのだ。
 普通の蝙蝠ではなさそうだということで、困っていたのだという。
「それじゃあ、部屋を少し調べてみます」
「お願いするよ」
 暗くなってきた室内には複数の燈台に火が灯された。
 弥勒と集真はせっかくだからと膳に向かい、食事を始め、雲母も焼き魚などを分けてもらっている。
 琥珀は室内の壁や窓の様子を確認し、何気なく続き間になっている隣室への戸を開けた。
「……っ」
 が、赤面して、すぐ閉めた。
 その部屋には、いかにもなしつらえで夜具が延べてあった。
 そちらを見てしまった珊瑚が慌てて弥勒に食って掛かる。
「法師さま! あたしが来るまで、あっちの部屋にいたんじゃないだろうね」
「誤解です、珊瑚」
「でも、集真さまは外にいた。法師さまはその人と二人きりだったってことだよね」
 弥勒は軽くため息をついて、飯を口に運んだ。
「本当に何もありませんよ。琴音と話していたのは集真のことですし、集真の女を取ったりしません」
 戸惑う珊瑚は琴音に目を移した。
「……あんた、集真さまのいい人なの?」
「集真の旦那はあたしの馴染み客なんだよ」
 なおも疑わしげな珊瑚の頬に手を当て、弥勒は艶やかな眼差しで顔をよせた。
「何ならおまえとあちらの部屋を使ってもいいですが?」
 たちまち頬を朱に染める可憐な妻を法師は微笑しつつ眺めている。
「だから見せつけるんじゃねえよ」
 やっていられないといったふうに集真がぼそっとつぶやいたとき、ふっと燈台の灯が揺れた。
 はっとした琥珀が姉と目を見合わせる。
「来た」
「思ったより早いな」
「これのせいでしょう」
 いつの間に貼ったのか。
 弥勒が指に挟む破魔札と同じものが、室内の何ヶ所かに貼られていた。
 微かな振動を感じて珊瑚と琥珀が立ち上がり、雲母が身構えた。
 振動はすぐにかたかたと大きくなり、戸や窓を震わせる。
「きゃあ!」
 不意に生暖かい風が吹き、悲鳴を上げた琴音を、集真がかばうように抱き寄せた。
「義兄上、これはおれの仕事ですからね」
「解っていますよ」
「退治したのが義兄上なんてことになったら、おれ、怒られてしまうから」
「……はい?」
 その辺の事情は法師には説明していない。
 ふわっと影が動いた。
 小さな蝙蝠の影だ。
 影の数は瞬く間に増え、天井近くを飛び回っている。
「本体はどこだ」
 鎖鎌を手に辺りを窺う琥珀に、弥勒が声をかけた。
「琥珀、これは影だけだ。実体じゃない」
「だけど、どこかに本体がいるはず……!」
 室内の空間の低い位置を飛行する蝙蝠たちの影に琥珀は鎖鎌を振るうが、手応えはない。それらはただの影でしかなく、斬ることはできなかった。
 バサバサバサッ! と、影の群れがせわしなく羽ばたいた。
「義兄上、灯りを守ってください」
「解っている」
 蝙蝠の影の群れが起こす風の勢いは、燈台の灯が消されてしまいそうな強さだった。
 だが、法師の手にある破魔札の効果で、灯された炎は危なげもなく静かに揺れている。
「ちょっと! 妖怪が消えないよ。いつもは部屋の中を何度か行き交いして、それから、どこかへ消えていってしまうのに」
 集真にしがみつく琴音が、怯えた声を出した。
「札のせいで、妖は外へ出られんようだな」
 琥珀を見守る法師の声は落ち着いている。
 集真と琴音を守るように、変化した雲母が待機していた。
 薄暗い天井を見つめていた珊瑚が、ふと隣室に意識を向けた。
「琥珀、妖気の源はあっちだ」
「!」
 妖気の出所を探っていた琥珀ははっとして続き間への戸を開けた。
 寝間にはこちらの部屋以上にたくさんの蝙蝠が影となって飛んでおり、薄闇の中、天井近くは蝙蝠の影の群れが闇と同化しているように見えた。
 琥珀の視線が室内を彷徨い、延べられた夜具の上にとどまった。
「そこか……!」
「琥珀、夜具をめくって!」
 珊瑚の声で琥珀が衾をめくり、褥をどけると、そこへ向かって、珊瑚が髪に挿していた簪を投げた。

 ひゅっ──

 影が消えた。
 風も消えた。
 何事もなかったように燈台の灯が揺らめき、室内は静寂を取り戻した。
「な……何で……?」
 驚いた琴音が掠れた声でつぶやいた。
「妖怪の本体はこれです」
 琥珀が示す、夜具の下に置かれていたものは、広げられた一枚の赤い蝙蝠扇かわほりおうぎであった。それに珊瑚が投げた簪が突き刺さっている。
「かわほり……」
 琴音は唖然としていた。
「あれをあそこに置いたのはおまえ自身ですか?」
 弥勒が問うと、琴音は恐ろしそうにうなずいた。
 中央に簪が刺さった蝙蝠扇を琥珀が手に取って、弥勒たちが座する場所に戻ってきた。
 その扇の赤黒い色を法師は見遣る。
「琥珀はこの色を何だと思う?」
「妖怪の血で染めたんだと思います」
「ひっ……」
 琥珀の答えに琴音が小さく悲鳴を上げた。
「邪術の道具のようだね」
 弥勒の隣に腰を下ろした珊瑚が言った。
「おまえ、そんなものをどこで手に入れたんだ?」
 己にすがりつく遊女に集真が問う。
「な、馴染みの一人が……願いが叶うまじないだって……」
「まじない?」
 こくこくと琴音が震えながらうなずく。
「身請けを断った馴染み客が、これを褥の下に敷いて寝ると、想い人と気持ちが通じるって……あたしに想う人がいると知って、親切でくれたんだとばかり……」
「その男は、琴音を逆恨みしたんでしょうな」
 弥勒は蝙蝠扇を琥珀から受け取って、丹念に調べた。
「他の男に抱かれているときも、集真を想っていたんだな」
 露骨な物言いに、珊瑚と琥珀がやや居心地が悪そうに視線を斜めに落とした。
「集真を想えば想うほど、それは恨みの念となって、この血染めのかわほりの妖気と共鳴し、邪念を生み出してしまったようだ」
「あたしは旦那を恨んでなんか……」
「おまえにそのつもりがなくとも、つれない男への恨みつらみが邪念となって、それを具象化したのが、蝙蝠の影だったんです。おまえに振られた男が質の悪い嫌がらせをしたのだろう」
 かわほりから簪を抜いた弥勒が、持っていた破魔札を扇面に貼ると、そこから黒い煙のようなものが抜けていき、赤黒かった色が浄化され、白く変化していった。
「実体のない影に物理的な危害を加える力はないが、このまま邪念を吸い続けていたら、このかわほり自体が妖怪となっていたでしょう」
「そんな……」
 琴音は全身の力が抜けてしまったようだった。
「旦那、信じてください。あたし、旦那のこと恨んでなんか……」
「ああ、琴音。解っている。おまえは素直ないい女だ」
「じゃあ、どうして別れ話なんて」
 ふっと珊瑚のほうへ目を向けてしまった集真は、慌てて兄弟子の妻から視線を逸らした。
「思うところがあって、決まった女を作るのをやめたんだ。とりあえず自分の女関係を全て清算しようと思ってな」
 うっかり友人の妻に惚れてしまったのだとは言わなかった。
 そこには弥勒も珊瑚もいる。
「好きな女でもできたのかい?」
「そうとも言えないが……」
 琴音はそこに座り直して、集真の眼をまっすぐ見つめた。
「水臭いよ、旦那。堅気の娘ならともかく、あたしみたいな遊女にそんな気遣いは無用ですよ」
「だが……」
「そもそも、旦那にあたしを身請けできるほどの甲斐性があるなんて思ってないよ。あれは閨の中での戯れ言だろう? それでいいんですよ」
「琴音」
「これからも通ってきてくださいな。でないと、本当に恨みます」
 結局、集真が持ち出した別れ話はまとまらなかったようだ。

* * *

 琴音ともう少し話し合うため、集真は郭にとどまることにした。
 翌朝、仕事を終えて郭を出てから、琥珀が姉夫婦に愚痴をこぼす。
「今後はもう、おれの仕事先で夫婦喧嘩なんてやめてよね。恥ずかしいったら」
「法師さまが最初からあたしにわけを話してくれていればよかったんだ」
「話していたらどうしていました? 私が郭に行くのを認めてくれましたか?」
「それは……」
 釈然としない様子の珊瑚の髪を弥勒の手が撫でる。
「まあ、それほど愛されているんだなあと嬉しくはありますが」
「なっ、なに言ってんの、琥珀の前で!」
「遊女姿のおまえもとても美しかった」
 妻の肩を抱き寄せようとする弥勒の手を、赫くなった珊瑚がぴしゃりとはたく。
 やれやれと琥珀がため息を洩らした。
「ほんとに姉上は義兄上のことになると危なっかしいんだから」
「みぅ」
「だから義兄上、なるべく姉上から目を離さないでくださいね」
「琥珀ったら……!」
「もちろんです」
 町は朝から賑やかだ。
 その活気に押されるように琥珀が口を開いた。
「じゃあ、おれと雲母はそろそろ行くから」
「えっ? うちに寄っていかないの?」
 残念そうな珊瑚を、琥珀は悪戯っぽい表情で見上げた。
「これ以上あてられるのはごめんです。ご馳走さま、って感じですよ」
「いやな琥珀!」
「身体に気をつけて。またいつでも遊びに来なさい、琥珀」
「はい。義兄上も」
 雲母を肩に乗せて、振り返り振り返り琥珀が町を出ていくと、それを見送った弥勒が妻を顧みて言った。
「折角ですから、私たちは少し町を散策して、それからどこかに宿を取りませんか?」
「宿?」
「早く二人きりになって、おまえと睦み合いたい」
 彼女の耳にささやく法師の声が甘い。
「法師さまったら、朝からそんなこと──
「いいじゃないですか。夫婦なんですから」
 錫杖の音が清かに響く。
 二人は寄り添ってぶらぶらと町を歩いていたが、ふと珊瑚が夫を見上げた。
「結局、法師さまは、郭で集真さまと遊女の別れ話をまとめようとしてたわけ?」
「そうです。他の女たちは自分で切ったが、琴音は手強いからとあいつに頼まれまして」
「なんで別れる必要があったんだろうね?」
「もう集真の話はやめませんか?」
 集真が珊瑚に惚れていることを知る弥勒は、できるだけ彼女と弟弟子を関わらせたくない。
 彼は珊瑚の腕を引き、行き交う人々の目に留まらぬよう、一瞬の早業で彼女の唇を奪った。
──ちょっ……! こんな町中で」
 珊瑚は周囲の人目を気にして、赫くなって弥勒の腕から逃れようとする。
 弥勒は素早く彼女の手を掴み、指を絡めた。
「大丈夫、誰も見ていません。だが、ここは人目が多すぎる。早く宿を取って二人きりになろう」
「……馬鹿」
 握られた手を珊瑚も握り返す。
「法師さま」
「何だ?」
「疑ってごめんね」
「今更でしょう?」
 ばつの悪そうな珊瑚に、くすくすと、弥勒は微笑みかけた。
 町は賑やかだ。
 昨夜の妖怪騒ぎが嘘のような、麗らかな朝だった。
 けれど、この日、法師とその妻は二人きりで宿にこもるのだろう。

≪ 前編 〔了〕

2020.3.6.

「こうもり」 ヨハン・シュトラウス2世