亥の刻頃だろうか。
かごめと夜具を並べて寝ていた珊瑚は、ふと、微かな話し声と足音で眼を覚ました。
Plaisir d'amour 〜 愛の喜び 〜
(あれは……この家のご主人と法師さま?)
そっと寝床から身を起こし、細く襖を開けてみた珊瑚は、二つの影が廊下を曲がっていくところを見た。
こんな時間に何をしてるのだろう?
この日の夕方、この町に着いた犬夜叉たちの一行は、適当に選んだ大きな屋敷で法師が仰々しく行ったお祓いの成果で、この日の宿を得た。
大きな町で手広く商いをしているらしいその家の主人に徳の高い法師に来ていただいたと歓迎され、贅沢な夕餉をご馳走になり、二部屋を用意してもらった。
徳の高い法師はこんな歓待は遠慮するんじゃないかな、と珊瑚は思ったが、久しぶりのまともな屋根の下ということで、口に出して文句を言う者はいない。
食事のあと酒まで振る舞われ、つい先ほど部屋に引きあげて床に就いたところなのだが──
(犬夜叉は一緒じゃないな。法師さま一人で何やってるんだろう)
珊瑚はそのまますいっと部屋を出て、気配を殺し、二つの影が消えたほうへと向かった。
ある部屋の襖の向こうで話し声がする。
はっとした珊瑚が物陰に身を潜めると、不意に襖が開いて、この家の主人が中から出てきた。
「それでは娘のことをどうかよろしくお願いいたします、法師さま」
「はい。お引き受けします」
主人は中にいるであろう弥勒に一礼すると、珊瑚が身を潜めている場所とは反対の方向へと歩いていった。
(娘? この家には娘さんがいたのか?)
家の主人から細君と一人息子を紹介されたが、娘がいるなどという話は夕餉の席では出なかった。
息子は齢十三ばかり。彼に姉がいるとすれば、まだ二十歳にはなっていないだろう。
(ってことは、今、法師さまは若い娘とこの部屋で二人きり……)
珊瑚の顔がさあっと蒼ざめた。
硬直する彼女の耳に、室内で交わされる密やかな会話が洩れ聞こえてきた。
「法師さま、まだ決心がつきません。覚悟はしていたつもりなのですが」
「夜は長い。あなたのお心が固まるまで、私はゆっくりお待ちしますよ」
「少し、怖くもあるのです」
「何も心配はいりません。今宵、この髪に私が触れても、あなたはあなた自身であり続けるのですから」
しばしの沈黙がおりた。
珊瑚は息をつめて襖の向こうの気配に全身の神経をとがらせる。
「法師さま。どうか、あなたさまのお手で、わたしを」
「決心はつきましたか」
「はい」
「よろしいのですね?」
「……はい」
微かな衣擦れの音がした。
(これって……これって……)
珊瑚は震える両手で自らの口許と頬を包み込んで声を抑えた。
(まるで、新枕を交わす新床の夫婦みたいな雰囲気じゃないかっ!)
法師と女の会話の断片を耳にしてしまった珊瑚は、胸の動悸と激しい動揺を隠せない。
(なんで? 会ったばかりの女とそんなことするの? しかも、よろしくって何、あの父親! 法師さまと娘の関係を許しちゃってるわけ──?)
もう襖の向こうからは衣擦れの音しかしない。
これ以上部屋に近づくと、いかに珊瑚が気配を消していようと、法師に気づかれる恐れがある。何よりも珊瑚自身が、部屋の中で何が行われているのか、確かめるのが怖かった。
受けた衝撃の大きさにふらふらする足を叱咤し、足音を立てずに踵を返すと、珊瑚はかごめの眠る部屋に戻り、自分の夜具の中に滑り込んだ。
これは裏切りなのか。
彼の行動が何を意味しているのか考えることが怖くて、眠って、悪い夢を見たのだと忘れてしまいたかったが、暗い天井の一点を見つめたまま、珊瑚はぼんやりと一睡もできずに夜を明かした。
「珊瑚ちゃん?」
いつの間にか朝が来ていた。
身支度をすませたかごめに顔を覗き込まれ、珊瑚ははっとなる。
「顔色がよくないけど……大丈夫?」
珊瑚はのろのろと夜具から身を起こした。
「ん。少し調子が悪いかな。ごめん、かごめちゃん。あたし、ゆっくり支度するから、朝餉はみんなで食べてきて」
かごめはひどく心配そうな表情を浮かべたが、珊瑚の様子に何か緊迫した雰囲気を感じ取り、小さくうなずいて、部屋を出た。
けれどなかなか立ち去ることができず、その場でうろうろしていると、室内の珊瑚の小さなつぶやきが聞こえてしまった。
「……ねえ、雲母。今度こそ、もう駄目だね。あたし、失恋しちゃったね」
その言葉に仰天したかごめは、反射的に身を翻して襖を開けた。
「さっさささ、珊瑚ちゃんっ!?」
しかし、空虚な眼でかごめを見返す珊瑚の表情の痛々しさに思わず口をつぐむ。
「かごめちゃん?」
「えっ、あの、朝ご飯、ここへ運んでこようか? だって珊瑚ちゃん、その──」
「ううん。食欲ないんだ。悪いけど、雲母だけお願いできるかな」
「あ、うん。でも……」
こんな様子の珊瑚を一人ここへ残すことは躊躇われたが、それより何があったのかをはっきりさせるべきだとかごめは思った。
弥勒さまのいつもの浮気?
誤解なら早く解かなければ。彼女のあんな表情を見るのはつらい。
かごめが朝餉の用意された部屋へ行くと、犬夜叉と弥勒と七宝が、少女たちの着席を待っていた。
「おせーぞ、かごめ」
朝の挨拶より先に文句を言う犬夜叉だったが、かごめの表情にわずかに含まれた怒りを敏感に感じ取り、すぐに口をつぐんだ。
「おはようございます、かごめさま。……珊瑚は?」
もう食べていいかのう? と控えめに目で問う七宝に、いいわよ、と笑顔でうなずき、雲母を抱いたかごめは弥勒の前にぴしっと背筋を伸ばして正座した。
「弥勒さま、今度は何やらかしたの?」
「はい?」
「落ち込んでるなんて生易しいもんじゃないわよ。いったい珊瑚ちゃんに何をしたの?」
弥勒はきょとんと首を傾ける。
「珊瑚がどうかしたんですか?」
食事を始めた犬夜叉と七宝も何事かと法師と対座するかごめを見た。
「きっと今ごろ泣いてるわ。珊瑚ちゃんを泣かせるなんて、あたしが許さないんだから!」
犬夜叉と七宝の視線が法師に移る。
「ちょ、ちょっと待ってください。何故、珊瑚が泣くんです。私が何をしたっていうんですか」
「弥勒さま以外に原因なんて考えられないじゃない。珊瑚ちゃん、失恋したって言ってたんだから」
「──失恋? 珊瑚が弥勒にか?」
「弥勒っ、白状せい! 珊瑚を泣かせたら、おらだって許さん!」
かごめの言葉に驚き、持っていた椀を落としそうになりながら犬夜叉と七宝が叫んだが、一同の中で一番驚愕しているのは当の弥勒だった。
「どう? 何か心当たりあるでしょ?」
自分を睨みつける少女へ、法師は愕然と首を振る。
「待ってください、かごめさま。冷静に考えてみてください。珊瑚は夕べの夕餉の席では普段と何ら変わりなかった。そして、そのあと我々は二部屋に分かれた。そして今朝、珊瑚の様子がおかしい。私がいつ珊瑚を傷つけたというんです」
「そう言われれば」
かごめは人差し指を頬にあて、眉をひそめる。
「じゃあ、珊瑚ちゃんの失恋って……」
突如、きまり悪げに弥勒の前から立ち上がったかごめは、ぎくしゃくとした動作で自分の席に着いた。心なしか、その表情が強張っている。
「……かごめ、もしや」
おどおどと低い声で言っていいものか悪いものか逡巡している七宝の言いたいことを犬夜叉が引き継ぐ。
「つまり、珊瑚は弥勒じゃねえ他の男に失恋したってことか?」
「犬夜叉、おすわりっ!」
ものすごい形相でかごめが叫ぶ。
「あんたねえ! 言っていいことと悪いことの区別もつかないの?」
「おめえが言い出したんだろうがっ」
確かに。
珊瑚の恋の悩みといえば弥勒以外に考えられず、不用意にそれを口にしてしまったことを今更ながらかごめは悔いた。
「単純に考えれば、珊瑚はこの町で誰かに惚れて、夕べおれたちが寝てからこっそりそいつに会いに行って振られたと。そう考えるのが自然じゃねえか?」
「……お、おらもそのようなことを考えてしもうた」
申しわけなさそうに七宝も言う。
「あ、あの、弥勒さま? ごめんね? 失恋したっていうのも、あたしの聞き違いかもしれないし」
つむじが見えるほど首を垂れている弥勒の表情は前髪に隠れて、三人には見えない。
「けどよぉ、あの珊瑚が弥勒以外の男に振られたからって飯も食えねえほど落ち込むなんて、よほどそいつにまいってたんだな」
「おすわり!」
「んがっ!」
「あんたはっ! これ以上こじらせるんじゃないわよ!」
腫れ物に触るような眼差しでこちらを窺うかごめと七宝の顔が視界の端に映っている。
虚ろな眼をした法師はふっと小さく吐息を洩らした。
珊瑚が失恋? 私の知らない男に?
弥勒は真っ白になった意識を何とかつなぎとめようと必死で考える。
この町へ来てから、何人の男と顔を合わせ、言葉を交わしたか。
珊瑚とはずっと一緒にいたから、そのうちの誰かに彼女が心を奪われたのだとすれば、自分もその男を見ているはずだ。
しかし、全く見当がつかなかった。
脳裏をよぎるのは、愛しい娘が自分に向けたやわらかな笑顔のみ。
私の子を産んでくれ、と言ったとき、水辺で、珊瑚は輝くように、はい、と答えた。
川の水は容易く流れを止めることはないが、珊瑚の私への想いは流れることをやめてしまったのか。
「……珊瑚は部屋にいるのですね?」
不意に静かな声が張りつめた空気の中に響き渡り、犬夜叉とかごめと七宝はびくっと表情を引きつらせた。雲母はこっそりと部屋の隅に避難し、事態を静観している。
緊張の真っ只中の朝餉の席からすっと立ち上がり、法師は部屋を出ようとした。
「ど、どうする気、ですか……?」
彼から漂うただならぬ気に強張った声を出すかごめを、弥勒は恐ろしいほど完璧な笑顔で振り返る。
「決まってるでしょう」
が、すぐに一転、氷のように冷たく全ての表情を消すと、涼やかな眼が、す、と細められた。
「どこの下衆野郎が珊瑚をたぶらかしたのか、訊き出してきます」
「……」
殺気だか冷気だか妖気だか知らないが、彼が放つ得体の知れない気に、三人は言葉もなく固まる。
七宝が怯えた表情で犬夜叉にしがみついていた。
2008.2.10.