とにかく落ち着け、と自分に言い聞かせ、弥勒は珊瑚がいる部屋の前まで来ると、可能な限り穏やかな声を出した。
「珊瑚」
心を乱したまま放心状態だった珊瑚は、突然聞こえた法師の声に、びくりと全身を強張らせた。
(やだ、こんなときに法師さまと顔をつきあわせたくない)
返答に逡巡していると、再び声がかけられる。
「珊瑚、いるんでしょう?」
錯乱する思考の破片を何とか掻き集め、珊瑚はこの場を取り繕おうと焦った。
「あ、あの、具合が悪いんだ。ごめん。一人にして」
「入りますよ」
震える声で精一杯答えた珊瑚の言葉は無視され、すっと開かれた襖の向こうに法師の姿が見えた。
動揺を悟られたくない珊瑚は、正座をしたままそろそろと身体の向きを変え、全身で法師の視線を避けている。
すぐに襖が閉じられる音がした。
「具合が悪い? それはいけませんな。頭でも痛いのか?」
「う、うん。平気。すぐ治るから」
「それとも」
すぐ後ろに法師が座る気配がする。
「胸が痛むのか?」
含みを持たせたその声音に珊瑚はびくっとした。
(あたしがどうして朝餉の席に行かなかったのか、法師さま、知ってる──?)
「珊瑚」
彼の手が肩に触れ、珊瑚は跳び上がるように弥勒と距離を取った。
そのとき、弥勒の瞳の中に痛みにも似た翳が走ったことに珊瑚は気づかない。
「あああ、あのねっ、ひとつだけ、答えてくれたらもう何も言わない。普段のあたしに戻る」
珊瑚は怯えたような眼でちらりと法師を振り返った。
「法師さま、本気……?」
「当然だろう」
珊瑚は何ともいえない哀しげな表情になり、法師から顔を逸らした。
「おまえは? 本気だったのか?」
こくりと小さくうなずく珊瑚の瞳が揺れているの見て、弥勒は唇を噛み締めた。
「……そんなに好きだったのか?」
珊瑚の瞳から涙がこぼれた。
「そんなこと訊くの? 今?」
自分はいつだって本気だった。
彼は違ったのかと思うと、切なくて、苦しくて、珊瑚は思いきり泣きわめいて彼をなじりたかった。
「は、初めて──こんな気持ちは初めてだったのに──」
必死に嗚咽をこらえ、ぐいと手の甲で涙をぬぐう珊瑚の姿に、弥勒は胸が引き裂かれるような痛みを覚えた。
「も、いい。今になってそんなこと言うんなら……」
「──誰だ」
地の底から響くような低い声に、ふと珊瑚は顔を上げて法師を見遣る。
弥勒は珊瑚を見てはいなかった。何かを耐え忍ぶような表情で彼女から顔をそむけている。
「どこの馬の骨だ、そいつは」
「え?」
珊瑚は小首を傾げてまばたきをした。
「そこまでおまえを追いつめて、こんなふうにおまえを泣かせて」
横を向いて一点を見つめる弥勒は悔しげに唇を結び、ぎゅっと握り拳を固めている。
「眼を覚ませ、珊瑚。つまらん男に引っ掛かるな」
「……は?」
不意に弥勒は屹と珊瑚に向き直り、彼女の両肩を掴んで首ががくがく揺れるほど揺さぶった。
「おれのところに戻ってこい。そんな男のことなど忘れろ」
「なに言ってんの、法師さま?」
「本気だったんだろう? それで、失恋したんだろう?」
「え、ええと」
「おれが忘れさせてやるから……!」
ぐいと珊瑚の腕を掴んだ弥勒は、乱暴に彼女を抱き寄せた。
「おまえはおれだけを見ていればいい」
「あ、あの……?」
頭を抱き込まれ、強引に口づけようとする弥勒の口許に掌を当て、珊瑚は彼の行為を制止させた。
「法師さま、今、本気だって言ったじゃないか!」
「今も今までもおれは本気だ!」
「だから、あたし、こんなに苦しいのにっ!」
「だからそのムカつく野郎は誰なんだ! 風穴で吸い殺してやるっ!」
激しい瞳で自分を睨みつける男を、ぱちぱちとまばたきをして、珊瑚は呆然と眺めた。
「……あんたのことだけど?」
「はい?」
今度は法師がきょとんと珊瑚を見つめる。
「夕べ、自分が何をしたか覚えてないの?」
「夕べ?」
弥勒は軽く眼を見開いた。
「夕べはおまえを怒らせるようなことは何もしてないが。尻も撫でてないし、屋敷の女中にも戯れ言を言ってないし、第一、この町ではおなごに声をかけることすらしてませんよ? おまえが私の横にぴったりくっついていましたから」
「最後のひと言は余計だ」
赫い顔を下へ向け、珊瑚はふるふると震えて拳を作った。
「じゃあ、この屋敷の娘さんと二人きりで何やってたのさ! よっよっ夜をともにしたんだろ?」
「ああ、なんだ」
ようやく合点がいったように、弥勒は心底ほっとしたような気の抜けたため息を洩らした。
「おまえ、この家に娘がいることに気づいたのか。さしずめ、夕べの私の行動を見たんだな?」
「何よっ。開き直る気?」
法師はくすくす笑い出した。
「おまえは私がその娘に何をしていたのかちゃんと見届けたか?」
「そんなことっ! できるわけないじゃないか!」
真っ赤になって怒る珊瑚を、ようやく安堵した弥勒は笑いながら抱き寄せる。
「安心なさい。徳の高いありがたーい法師が家にやってきたというので、娘の髪をおろしてほしいと頼まれただけですよ」
「……」
一瞬、その意味を理解できず、珊瑚は法師の腕の中で呆けたような表情を作った。
「……髪?」
「そうです。髪」
弥勒はぽかんとする珊瑚の顔を、悪戯っぽく覗き込んだ。
「この家には、跡取りであるご子息の上に姉君が一人おられましてね」
言いながら、法師は自分を見つめる娘の艶やかな髪を指に絡め、弄ぶ。
「その娘御は一年前に嫁がれたのですが、半年ほど前、ご夫君を戦で亡くされました」
「亡くなった……」
「はい。一人残され、たいそう嘆かれて、ご実家であるこの屋敷へ戻っても、ずっと部屋にこもりきりでご夫君の菩提を弔って過ごされてきたそうです」
珊瑚はうつむいた。
かけがえのない人を喪う悲しみは彼女にも痛いほど解る。
「その間、ずっと尼になることを考えていたそうです。娘御の決心は固く、ご家族も彼女が仏門に入ることを納得されました。そこへ通り掛かったのが私というわけです」
「ああ、昨日のお祓いで気に入られたから……」
穏やかに弥勒はうなずく。
「昨夜はあの方といろいろ話をしました。この戦乱の世。ご夫君の死を悼むだけではなく、ご自身と同じ境遇の女人が少なくなることを願うと、そのために御仏に祈るのだとおっしゃってました」
「……ごめん、あたしってば。そんな人と法師さまの仲を疑っちゃったんだ」
動揺を隠せない珊瑚の髪を、幼子をあやすように弥勒は撫でた。
「娘御は人前に出ることを避けておられたので、私もご主人も、おまえや犬夜叉たちにはこの家に娘がいることは黙っていた。それが、いらぬ誤解を招いたのだな」
「自分が恥ずかしいよ。その人に申しわけない」
「もういいではないですか。お互い、誤解は解けたんですし」
「お互い?」
怪訝そうに首を傾ける珊瑚に、弥勒は咄嗟に言葉をつまらせる。
「お互いって? 法師さまも何か誤解があったの?」
「え……いや、まあ。いろいろと」
珊瑚の勘違いとかごめたちの早とちりに振り廻されて、あれほど必死になった自分が可笑しかった。
(おれもまだまだ修行が足りねえな)
しかし、全てはこの娘を愛しく想うからこそ。そんな自分は嫌いじゃない。
そして抱いた苦悩は全くの杞憂だった。
彼女の想いはいささかも変わることなく、ひたむきに彼へと向けられている。
それだけで充分だった。
「法師さま?」
「かごめさまに……」
「かごめちゃんが?」
「おまえが失恋して泣いていると聞かされて」
「え──?」
珊瑚は驚いて眼を見張る。
(確かに失恋したと思って泣きそうだったけど……なんで、かごめちゃんに解っちゃったんだろう?)
だけど、ただの勘違いだった。
勝手に勘違いして勝手に落ち込んでいた自分をこんなにも心配し、弥勒がすぐに駆け付けてくれたことが途方もなく嬉しかった。
「結局、あたし、何を一人で悩んでたんだろう」
「私もだ。できれば、今すぐ安心させてほしいんだが」
彼女の額髪を払った弥勒がやさしい曲線を描く頬に手を添えると、娘は恥ずかしそうに眼を伏せた。
「ですが、その前に」
ふと動きを止め、法師は背後の襖へ視線を放つ。
音もなく立ち上がった弥勒が勢いよく襖を開けると、
「きゃっ!」
「わっ!」
「んあっ!」
「かごめちゃん、七宝、犬夜叉も!」
襖の向こうから一斉に転がり出て畳に伏した三人を見て、真っ赤になった珊瑚が驚いて立ち上がる。
「あ、あはは。ごめんね、珊瑚ちゃん。あたしたち、ただ心配だったから」
「そっ、そうじゃ。おらも珊瑚が心配でっ」
「……おれはこいつらにつきあわされただけだ」
「誰も私の心配はしてくれないんですか?」
法師が不機嫌な眼を向けると、三人はそそくさと立ち上がり、ごゆっくりーとつぶやきながら去っていった。
「やだ、全部聞かれちゃった?」
「野次馬の餌食になるのはごめんです」
法師はぴしゃりと襖を閉める。
「では珊瑚、続きを」
三人の気配が完全に消えると、弥勒は立ちつくしたままの珊瑚に近寄り、華奢な肢体を抱き寄せた。
「もう一度訊きますよ、珊瑚。──本気だな?」
「法師さま、意地が悪い」
「私は本気ですよ」
「あたしは……さっき言ったもん」
弥勒は抱いている細い腰をさらに引き寄せ、右手で珊瑚の前髪をつんと引っ張った。
「言いなさい」
「……本気、だよ?」
「誰に?」
「法師さまに」
小さな声で答え、すぐに眼を逸らす娘の愛らしさにやわらかく眼を細め、法師は右手を彼女の後頭部に廻した。
「私も本気だからな。もちろん、おまえに」
微かに弧を描く唇同士が触れあった。
「ねえ、法師さま。安心したら、お腹が空いちゃった」
「まだです。私が安心するまで、我慢しなさい」
息がかかる距離でささやきを交わすと、再び唇が重なった。
「ん……」
幾度も角度を変え、執拗に貪ってくる法師の行為がそのまま彼の不安だったのだと思うと、恥ずかしいけれど嬉しくて、いつもはあまり自分から口づけを返すことがない珊瑚も、少し勇気を出して、控えめに彼の唇を吸った。
そんな娘の意思表示が嬉しくて、法師はさらに貪欲になる。
甘い口づけを果てしなく繰り返す弥勒の腕に閉じ込められ、珊瑚はぼんやり考える。
(お腹空いたなあ……朝餉、もう片付けられちゃったんじゃないかな。まあいいや。あとでかごめちゃんに何かもらおう)
口づけはまだ続いている。
朝食抜きを覚悟した珊瑚は、その代わり、とばかりに法衣を握りしめていた手できゅっと弥勒に抱きついた。
≪ 前編 〔了〕
2008.2.10.