偶然だったんだ。
 それを見たのは──

たまゆら

 その山間やまあいの村に数日間滞在することになったのは、突然降り出した雨のせいだった。
 ちょうど山越えの途中だった犬夜叉たちの一行は、予想外に強くなっていく雨足に、洞窟のような雨宿りのできる場所を探した。
 そして、偶然、辿り着いたのが、この小さな村落だったのだ。
 そう長くは続かないだろうと思っていた雨は、三日、四日と降り続き、雨の山越えは難儀だろうとの村人たちの好意で、一行は今日までこの村に滞在していた。
 六日目の朝、ようやく晴れ渡った空にまぶしい朝日が顔を見せた。
「今日は出発できるな」
 借りていた小さな小屋から外へ出た犬夜叉が大きく伸びをしながら言うと、かごめが少し首を傾けた。
「五日もお世話になったんだもの。お礼代わりに何かお手伝いしていきましょうよ」
 弥勒も珊瑚もそれに同意を示したので、一行はもう一日この村に滞在し、村人たちの仕事を手伝っていくことになった。

 犬夜叉は薪割り、かごめと七宝は畑を手伝っている。珊瑚は薬草を採りに山へ入った。
 水を汲みに弥勒が沢へ下りると、そこは洗濯のために訪れた村の女たちが集い、にぎやかだった。
「これはこれは。華やかな光景ですなあ」
 楽しそうに溜まった洗濯物を洗う女たちに声をかけると、近くにいた娘が数人、嬉しげに振り向いた。
「雨に閉じ込められていたんですもの。久しぶりに晴れると嬉しい」
「お手伝いさせてすみません、法師さま」
「なんの。お世話になったのはこちらのほうです。これくらい何でもありませんよ」
 持ってきた桶に水を満たし、さて、村へ戻ろうとしたとき、突如、少し離れた場所で悲鳴が上がった。
「きゃああっ! 誰か!」
「撫子……撫子が……!」
 弥勒は桶を置いて、叫び声のしたほうへ駆け寄った。
「どうしたのです」
「弥勒さま、撫子が!」
「撫子が深みに落ちて──流されて……!」
 洗濯をしていた娘たちの何人かがはしゃいで川に入り、そのうちの一人が深みに足を取られてしまったのだという。
 ここ数日の雨のせいで川の水位は上がり、流れも急になっている。
 流されたという娘の姿はもう見えない。
「くっ……!」
 弥勒は川下への道を聞くと、錫杖だけを手に、そちらへ先回りしようと、急ぎ、山道を駆けた。
(間に合ってくれればいいが──

 岩肌に囲まれたその場所は、だいぶ川幅が広くなっていた。
 意識のない娘が流木に引っ掛かっている姿を発見した弥勒は、胸をなでおろした。
 慎重に崖を下り、岩ばかりの河原に下りると、衣の裾をからげ、注意深く川の中に入った。自分まで流れに足を取られては意味がない。
 そして、気を失ったままの娘の身体を川から引き上げ、岩の上に横たえさせた。
「撫子どの、撫子どの!」
 ぺちぺちと頬をたたくも、娘に反応はない。
 血の気のうせた顔に、真っ青な唇をしている。水に浸かっていた肌は氷のようだった。
 弥勒は周囲を見廻してみるも、焚火の材料になるようなものは見当たらない。夕べまで雨が降っていたのだから、乾いた枯れ枝などあるはずがなかった。
 しかし、ぐっしょりと水分を含んだ衣が娘の体温をどんどん奪っていく。
(仕方がない)
 弥勒は小さくため息を洩らすと、撫子が身にまとう小袖に手を掛けた。
「撫子どの、許されよ」
 手早く褶を外すと、帯を解き、小袖を脱がせ、その下の肌小袖も脱がせる。
 さすがに湯巻だけはそのまま手を触れなかった。
 しかし。
(くそっ。ここに雲母か犬夜叉がいれば、この娘を村まで運んでもらえるのだが)
 自らの袈裟で娘の裸身を包んでやりながら、弥勒は心の中で舌打ちをする。
 ここの岩場は周囲を切り立った崖に囲まれている。
 彼一人で意識のない娘を抱えてこの崖を登るのは至難の業だろう。
 一旦引き返し、雲母をつれてくるか。それまで、この娘の体力はもつだろうか。
 弥勒は撫子の意識を回復させることが先決だと判断した。
(珊瑚、すまん)
 弥勒は諸肌を脱ぎ、横たわる娘の傍らに膝をつくと、その身にまとわせた袈裟を取り払う。そして、娘の肌に己の上半身を密着させ、自らの体温を分け与えようとした。
(撫子どの、早く気がついてくれ)
 もちろん、娘を救いたい一心のことで、今の弥勒に下心など微塵もなかった。しかし、珊瑚への罪悪感でどうしようもなく胸が痛む。
 しばらくじっと撫子を抱きしめ、その肌を温め続けていると、不意に、腕の中の娘が小さく身じろいだ。
「気がつかれましたか、撫子どの」
「み、ろく……さ、ま……?」
 けだるげにゆっくりと眼を開けた撫子は、小さく男の名をつぶやき、その顔を間近に確認すると、自分の置かれている状況にぎょっとしたように身を強張らせた。
 無理もない。裸で男に抱きしめられているのだ。
「大丈夫、何もしていません。あなたは溺れたんですよ」
「溺れた……?」
「ええ。沢で深みにはまって、川を流された。覚えていますか?」
「あ……はい。わたし──
 事態を呑み込んだ娘の顔がみるみるうちに朱に染まっていく。
 ゆっくりと身を起こした弥勒は、再び己の袈裟で撫子の裸身を包む。
「弥勒さまがわたしを助けてくださったんですね……」
「たまたまその場に居合わせただけです。このままでは帰れないでしょう。助けを呼んできますので、しばらく一人で待っていられますね?」
 諸肌を脱いでいた弥勒が緇衣に腕を通す様を見て、撫子は再び顔を赤らめた。
 弥勒一人なら、この崖を登るのも雑作はない。
 錫杖を持って立ち上がり、身を翻した弥勒を、撫子が呼び止めた。
「弥勒さま」
 振り向くと、立ち上がった撫子が思いつめたような表情でこちらを見ている。
「弥勒さま、まだ寒いの。温めてください」
 撫子は弥勒の見ている前で、するりと袈裟を肩から滑らせた。
「撫子どの……」
 濡れて下半身に貼り付いた湯巻一枚という姿で近づいてくる娘を、弥勒はため息混じりに困ったような声でたしなめた。
「若いおなごが軽々しくこのようなことをするものではありません」
「いいえ。あなたが村に来られた日から、ひと目で心を奪われました。お慕いしているんです。胸が苦しいくらい」
 撫子はすっと法師に近づくと、緇衣の衿に手を掛けて合わせを割り開き、露になった彼の胸元に唇を寄せた。そのまま口づけを請うように顔をあげて法師を見たが、彼が何の反応も示さないことを知ると、彼の胸板に自分の乳房を押し付けるようにして抱きついた。
「好きです、弥勒さま。想いを遂げさせてください」
「おやめなさい。撫子どのにとって、私はただの行きずりの旅の法師ですよ」
「それでもいいの。お願い、一度でいいから」
 弥勒は撫子の両肩に手を置き、やさしく彼女を引き離そうとしたが、撫子は弥勒の左手を取ると、己の胸のふくらみに導いた。
 弥勒は眉をひそめて困惑する。
 このまま邪険に娘の手を振り払えば、この娘の体面をひどく傷つけるだろう。かといって、娘の想いに応える気はない。
 だが、もしこれが以前の自分だったら、迷うことなく娘を抱いていたはずだ。
 ふと、そんなことを考えて、弥勒は自嘲とも苦笑ともつかぬ形に唇をゆがませた。
 もちろん、彼も男であり、半裸の若い娘に抱きつかれ、その肌を間近に見、やわらかなふくらみを掌にじかに感じていれば、平然としていられるわけはない。自然と欲望が募ってくる。
 しかしそれは、撫子を抱きたいという欲望ではなく、
(珊瑚……)
 彼は、今ここにいない珊瑚を抱きたいという激しい想いに支配されつつあった。
 珊瑚とはすでに一線を越えている。
 しかし、肌を合わせた数は決して多くはない。
 無垢な珊瑚に己の欲望をぶつけるのは罪のような気がして、弥勒は、心のままに珊瑚を求めることができないでいた。
 愛している。故に、常に彼女に飢えていた。
 漠然と愛しい娘の面影を追いつつ、手の中にあるふくらみを弄んでいると、次第に撫子のほうが焦れてきた。
 もどかしげに湯巻を脱ぎ捨て、男の手を自らの女の部分に導く。そこはしっとりと濡れていた。
「弥勒さま……」
 撫子は熱く潤んだ瞳で法師を見つめる。
 どこか虚ろな瞳で娘を見つめ返しながら、娘の花弁に触れた指から、弥勒は娘の熱を感じた。
 反射的に、肌を合わせたときの珊瑚の姿態がまざまざと弥勒の脳裏によみがえる。
 思わず撫子の肩を掴む右手に力がこもり、その手から離れた錫杖が、しゃらん、と澄んだ音を響かせ、地に落ちた。
 撫子に導かれた左手が蜜を含んだ花弁を無意識にまさぐる。
「あっ……」
 法師に抱きつく撫子は、身を震わせ、彼の胸元に唇を這わせながらうっとりと吐息を洩らした。
 しかし。
──珊瑚──
 法師のつぶやきを耳にして、唖然として顔を上げた。
 法師は彼女を見てはいなかった。彼の眼は、他の誰かを映している。
「弥勒さま、わたしを見て! わたしだけを見て、わたしを抱いてください」
 撫子の必死の懇願を聞き、弥勒はふっと己を取り戻した。
「撫子どの。申しわけないが、私はあなたを抱くことはできない」
 今度こそ決然と撫子から身を離す弥勒に対し、撫子は激しく首を振り、法師にすがりついた。
「嫌! 嫌です。今だけでいい。どうか、わたしを」
「撫子どの……」
 大きくため息をつき、もう一度娘を諭そうとした弥勒がふと眼を上げると、崖の上に人影があった。
──!」
 それは、他でもない、珊瑚だった。いつからそこにいたのか──
 驚愕に眼を大きく見開き、法師と、法師にすがりつくように抱きついている裸の娘を見つめている。
──珊瑚!」
 弥勒と目が合うと、珊瑚ははっと我に返り、刹那、悲しげに顔をゆがめたかと思うと、さっと身を翻して森の中へと消えた。
「珊瑚……!」
 誤解された、と直感した弥勒は、撫子の身体を強引に引き離した。地面に落ちていた袈裟を撫子の肩に掛け、すがる娘を振り切るようにして珊瑚のあとを追う。
「弥勒さま!」
 撫子の悲痛な叫びが岩場にこだました。

後編 ≫ 

2007.11.3.