とにかく珊瑚の誤解を解かなければ。
 崖の上の森を当てどなく珊瑚を捜して彷徨っていると、やがて、樹の根元にうずくまってすすり泣く見慣れた小袖姿を見つけることができた。
「珊瑚……」
 躊躇するように呼びかけた弥勒の声に、珊瑚は驚いたように顔を上げる。彼の気配に気づかないほど、彼女は取り乱していたのだ。
 とっさにその場から逃げようとする珊瑚の腕を、弥勒は素早く掴んだ。
「珊瑚、話を聞いてくれ」
「来ないで! 放してよ……!」
 彼を激しく拒絶する珊瑚の惑乱ぶりに、今は何を言っても無駄だと思った弥勒は、強引に彼女を抱き寄せた。
「いやっ!」
 彼の腕を振りほどこうとする珊瑚と、彼女を逃がすまいとする弥勒。
「嫌だ、触らないで!」
「いいから聞け!」
 弥勒は噛んで含めるように、今までの経緯を珊瑚に話して聞かせた。
 溺れた娘を助け、体温を奪う濡れた衣を脱がせただけだと。その冷え切った身体を温めるため、娘を素肌で抱きしめたことはさすがに言いたくはなかった。
 しかし、珊瑚は彼の腕にからめとられながらも顔を逸らし、彼と眼を合わせようとしない。
「私が信じられんか」
「信じたいけど……何を信じたらいいのか判んないよ……」
 唇を噛みしめ、横を向いたまま、珊瑚はうつむいた。
「法師さまは、誰にでもやさしいから」
 所詮あたしもその一人なの? と、ひどく悲しげな珊瑚の横顔が問うている。
「……そうか」
 押し殺したような声でつぶやく弥勒の眼には、顔を逸らした珊瑚の白い首筋が映っていた。
 珊瑚に信じてもらえないことに対する悲しみ、こんな事態を招いてしまった自分への怒り、そして抑えきれない彼女への欲望が、弥勒に箍を外させる。
 何もかもがたまらなくなり、衝動的に珊瑚を抱く腕に力をこめると、弥勒は目の前にある彼女の白い首筋に顔を埋め、そこに荒々しく吸い付いた。
「やっ! なにす……やめて!」
 突然のことに驚き、もがく珊瑚。だが、弥勒の腕は緩まない。
「おまえが欲しい」
 弥勒の唇は珊瑚の首筋から喉をちろちろと舐めながら這い上がり、頬を滑って耳に辿りついた。
 赫く染まった耳朶を甘噛みし、舌を這わせる。
 やるせない想いに珊瑚の双眸から涙がこぼれた。
 他の娘を抱こうとしていたかもしれない男に、その代わりにされるのは嫌だった。少なくとも、裸形の娘と抱き合っている弥勒を目の当たりに見たのだ。
 珊瑚は激しく抵抗した。
「放して! 女が欲しければ、さっきの娘のところに戻ればいいだろ!」
「女が欲しいのではない」
 身をよじって抵抗する珊瑚の耳をなおも唇で甘く食みながら、弥勒は熱っぽくささやく。
「おれが欲しいのは、珊瑚、おまえだ」
 その言葉に、思わず珊瑚は弥勒を見た。
 熱を込めて自分を見つめる弥勒の瞳は怖いほど真摯で、はっとなった珊瑚は思わずひるむ。
「この言葉も、信じられんか?」
 弥勒の瞳の奥に、静かに、だがはっきりと、情欲の焔が揺らめいている。
 野性味を帯びた男の顔で自分を求める弥勒に、珊瑚は本能的な恐怖を感じた。
 ──法師さまのこんな顔、見たことない──
「……ならば、信じさせてやる」
 怯えた表情の珊瑚をその瞳に映したまま、ゆっくりと弥勒は彼女に顔を近づけた。有無を言わせず、小さくわななく唇を熱い唇で覆い、決して満たされない飢えを満たそうとするように、弥勒は震える吐息ごとそれを貪った。
 こんなに激しい口づけは与えられたことがない。口づけだけで意識が遠のきそうだ。
 思考が混濁する。
 我知らず躰の芯が熱くなり、弥勒の激情の波に攫われていく自分自身に、珊瑚は慄いた。

* * *

 珊瑚の中で果てたあとも、しばらく彼女を抱きしめて横たわったまま、弥勒は荒い息を整えていた。
 激情のままに打ち付けた自分を慣れない躰で受け止めてくれた珊瑚が愛しくてたまらない。
 ようやく彼女の上から身を起こした弥勒は、乱れきったその衣を直してやった。
 いつになく激しく珊瑚を抱いた。
 半ば強引に抱かれた形の珊瑚は、起き上がることもせず、ぐったりと苦しげな呼吸を洩らし、弥勒を見ようともしない。彼女の頬には涙のあとが幾筋も残っていた。
 己のなしようが彼女の身も心もひどく苛んでしまったのではないかと、弥勒は、力ずくで行為に及んだ自分をやるせなく悔いた。
「……すまなかった」
──どうして謝るの?」
 ぽつりと珊瑚が小さく洩らす。
「あたしを抱いたこと? それとも……他の娘を抱こうとしたこと?」
「おまえの気持ちを無視して強引におまえを抱いたことに対してだ」
 ぴくりと珊瑚が身を震わせた。
「先ほどの娘とは本当に何でもない。信じる信じないは……おまえの自由だが」
 それでもしばらく黙したままの珊瑚の様子に、彼女を苦しめている自分自身を弥勒は激しく責めた。
 初めて抱いたときは、珊瑚が望んでいるのだからと、自分に言い訳をした。欲しかったのは、己のほうなのに。
 ひとたび珊瑚を知ってしまうと、もう他の女を抱こうという気にはならなかった。
 それほど彼女が愛しい。
 それほど彼女に溺れている。
 改めてその事実を自覚した彼の端整な顔に、苦い笑みが揺蕩った。
 珊瑚はこんな自分をどう思っているのだろうか。
 たった一人の女の心の動きに怯え、その女のことをこれほど気にしている自分自身に、弥勒は自嘲を禁じえない。
「あたし……嫉妬したのかな」
 横たわったまま、つぶやくような珊瑚の声が聞こえた。
「法師さまはあたしを求めてくれないのに、他の娘なら求めるのかって──
 その言葉に弥勒は驚いて彼女のほうを見た。
 顔を赤らめ、法師から顔を逸らせたまま、小さな声で珊瑚はつぶやく。飽きられたのではないかと不安に押しつぶされそうだった、と。
「許して……くれるか?」
「法師さまが、別に後ろめたいことがないなら、あたしに許しを求める必要なんかないじゃない」
 ゆっくりと珊瑚は身を起こす。
 怖じるように伸ばした弥勒の手が彼女に触れると、わずかに身を強張らせたものの、その手を拒むようなことはしなかった。
「珊瑚……」
「もう、いいよ。法師さまが何でもなかったって言うんなら、法師さまを信じる」
 うつむいたままの彼女を、弥勒はそっと、だが力強く抱きしめた。
「ごめんね、法師さま」
「え?」
「信じてあげられなくて」
 言葉にならない愛しさがこみ上げ、弥勒は最愛の娘の唇に静かに己の唇を重ねあわせた。

 翌日、村を出立するとき、珊瑚は撫子に呼び止められた。
「あのとき、わたしの肌に触れながら、弥勒さまがなんて言われたか教えてあげましょうか」
 突然そんなことを言い出した撫子の真意を測りかね、珊瑚は彼女に背を向けたまま、身を強張らせてただ立ちつくす。
 聞くのが怖い。そんな珊瑚の様子に撫子はふふっと笑い、
「あのとき、弥勒さまはこうつぶやかれたんです。──珊瑚、と」
 はっと息を呑んだ珊瑚は驚いて撫子を振り返る。
 撫子は寂しげに微笑を浮かべていた。
「あ、あの──
 珊瑚が何か言おうと口を開きかけたとき、弥勒が彼女を呼ぶ声が聞こえた。
「ほら、弥勒さまが呼んでいらっしゃいますよ」
 撫子に促され、後ろ髪を引かれつつ弥勒のもとへと走る珊瑚は、撫子に向かって「ありがとう」とだけ小さく告げた。

「手癖の悪い法師に悪さをされたと言われたか」
 自分のもとに駆け寄ってきた娘に、冗談めかしてそんなふうに笑う弥勒に、真実を知った珊瑚はわずかに動揺して頬を染めた。
 ちらちらと自分を見つめる珊瑚に、つい弥勒は悪戯心をくすぐられる。
 犬夜叉と、七宝を抱いたかごめがかなり先を歩いているのを確認すると、隣を歩く珊瑚の唇を素早く奪った。
 唖然とした彼女が、一瞬遅れて真っ赤になりながら抗議の声を上げると、にやりと人の悪い笑みを浮かべてみせる。
「あんまり私を見つめるので、てっきり口づけてほしいのかと」
「ふ、不意打ちなんて……法師さま、意地悪だ」
「では、不意打ちでなければいいのだな」
 弥勒はぐいと珊瑚の腕を引くと、わざとゆっくり顔を近づけた。
 その深い黒曜石の瞳に囚われ、動けずにいる珊瑚の唇をやわらかくついばむ。
 珊瑚がそっと眼を閉じると、弥勒の口づけは、次第に深く、情熱的なものになっていった。
 鬱蒼と木々が生い茂る山の中に二人きり。
 すでに前方に犬夜叉たちの姿は見えない。
 弥勒の腕が珊瑚の背に廻され、彼女を強く抱きしめると、珊瑚もまた、遠慮がちに法師の背中を抱きしめた。
「……法師さま」
「なんだ?」
「早く行かないと、犬夜叉たちに追いつけなくなっちゃうよ?」
「なに、いざとなったら雲母に頼もう。それより、もう少し、このまま──
 不意に起こった気まぐれな風が、錫杖の六輪を揺らし、しゃら、と清かな音を響かせた。

≪ 前編 〔了〕

2007.11.3.

たまゆらに揺れるそれぞれの心。錫杖の音はその象徴。