紅珊瑚の姫 −第四話−
それより少し前のこと。
城門を前にたたずむ一人の法師が、肩の上の猫又と顔を見合わせた。
「困りましたなあ……」
城の番兵に珊瑚の姿形を伝え、いくら尋ねてみても、そのような娘はこの門を通っていないと突っ撥ねられるし、それではと、今日、町人に身をやつしてここを通った侍に目通りしたいと願い出ると、即座に口を閉ざされる。
それでもしつこく食い下がると、城の門まで閉ざされてしまった。
「珊瑚の匂いは、確かにこの城に続いているのだな?」
法師の問い掛けに猫又はみゃあと肯定の意を伝えた。
城の長い廊下を、珊瑚は若君に腕を取られて小走りに歩んでいた。
「若様、姫君はどこに?」
「姫? この城に姫などおらぬが」
「えっ? じゃあ、どこへ向かっているんだ?」
「天守だ。騒ぎが収まるまで、珊瑚どのはそこに隠れておればよい」
珊瑚は焦った。
妖怪が退治されるまで隠れていたのでは、何のためにここへ来たのか解らない。退治屋としての立場がない。
自らの誇りにかけて、この姿でも妖怪退治をしてやろうではないかと珊瑚の闘志に火がついた。
「若様、あたし、こんな格好だけど、何とか闘ってみるから。逃げていたってしょうがないだろ。刀を貸してくれれば──」
珊瑚の手を引き、早足で進みながら伊織はとんでもないというように否定する。
「馬鹿な。私の室となるそなたに万が一のことがあったらどうする」
「いつそんなことが決まった!」
珊瑚の突っ込みは聞かなかったことにして、伊織は天守へと続く梯子のところまで辿りつくと、そこを無理やり珊瑚に登らせようとした。
「ちょっと! あたし、こんなところに隠れている場合じゃないんだけど!」
「勇ましいな。武家の妻に相応しい。刀が欲しければ取ってきてやるから、とにかく登れ」
押しあい圧しあいしているうちに、珊瑚は梯子の下へ追いやられてしまった。
背後に伊織がへばりついているので、やむを得ず上へ進む。
彼女が梯子を登るのを手助けしようと手を伸ばした伊織は、だが、その背に流れる絹糸のような緑髪に触れるのは畏れ多い気がして、躊躇いを覚えた。
美しく結ばれた大きな帯に手をかけるのも、その形を崩してしまう。
仕方がないのであまり深く考えず帯の下の部分を力をこめて掌で上へ押し上げると、珊瑚の口から悲鳴が上がった。
「きゃああっ! 何すんのさ!」
「ぶっ」
同時に伊織は彼女の足の裏を顔面で受けとめる破目になる。
「……さ、珊瑚どの、すまない。別に悪気は……」
「いいからっ! さっさとその手を離しなっ」
真っ赤になって彼を振り向いた珊瑚は、自分が退治屋の装束ではなく、このまま上を向かれると非常にまずい事態になることに気づいてさらに叫んだ。
「上っ、上、見ないでよ! 眼をつぶって下向いてて!」
「解った! 眼をつぶっているから、早く足をどけてくれ」
伊織が臀部から手を離して眼を閉じたことを確認してから、珊瑚は憤懣やる方ないといった形相で天守へと登っていった。
「さて、雲母。珊瑚はどこでしょうねえ。……ん?」
弥勒は上空にいる。
門から中へ入れてもらえないのなら、空から勝手に入らせてもらおうというのだ。
徐々に高度を下げていく雲母の背から城の庭を見下ろし、弥勒は、城中がいやに騒然としていることに眉をひそめた。
「何かあったんでしょうか。珊瑚が無事であればよいが」
人々がばたばたと建物を出たり入ったりしている。
武装している者がやたらと眼につく。
「城内に賊でも侵入したのか?」
だが、地上に整然と並んだ武士たちが引き絞る弓の標的がどうやら自分であるらしいと知り、弥勒はぎょっとなってたじろいだ。
「え゛──まさか、賊は私……?」
今は上空にいるが、城の者からすれば彼はどう見ても不審人物。立派な侵入者だ。
「うわっ……」
矢が飛んでくる。次から次へと。
かといって応戦するわけにもいかず、彼は周囲を見廻した。
「危ないですな、当たったらどうするんですか。雲母、とりあえずあの屋根へ降りてくれ。あそこなら地上から死角になる」
弥勒の指示に従い、屋根の上に降り立った雲母は、不意にぴくりと耳をそばだて、顔を上げた。
きょろきょろする猫又の様子に法師も気づいた。
「雲母? どうした」
天守まで登らされた珊瑚は、彼女を守ると言い張り、そばを離れようとしない伊織に、とにかく武器が欲しいからと説きふせて刀を取りに行かせた。
彼の姿が見えなくなると、こっそり天守から下へ下りる。
こんなときに飛来骨はおろか仕込み刀もつけておらず、懐刀ひとつ持ってきていないことが悔やまれた。
「くそっ。せめて、城の連中がもっと協力的だったら──」
妖怪退治の専門家として、陣頭指揮くらいは取れるかもしれないのに。
憮然としながら、依然、騒々しい城内の様子に珊瑚は耳をすませた。
人々の騒ぎ立てる声が聞こえる。
「恐ろしい妖怪です。まるで、焔をまとった空飛ぶ唐獅子のような……」
「いや、大きな眼も焔のようじゃった。あれは火眼金睛獣なる獣では」
「金睛獣というより、火眼で獅子のような姿なれば、それは確か、しゅん……しゅん……」
慌てふためく彼らの狂態が手に取るように解ったが、珊瑚には何か引っかかるものがあった。
(焔をまとって空を飛んで……火眼ということは眼が赤くて……獅子のような姿で……)
どこかで見たような姿を思い起こさせる。
そういえば、彼女の相棒も眼が赤くて、変化すれば焔をまとい、唐獅子に似ていると言えなくも──ないかもしれない。
「ええっ? まさか、妖怪って雲母のこと!?」
驚いた珊瑚は慌てて踵を返し、再び天守へと駆け上がった。
「おお、左近。妖怪はどうなった?」
珊瑚に頼まれて刀を取りに行った伊織は、廊下で重臣の左近と出くわし、戦況を問うた。
「それが死角に入ったらしく、見失ってしまいました。どうも、操っている人間がいるようです」
「なに、人間が? この城を落とすのが目的か?」
「そこまではまだ……しかし、目撃した者によりますと、妖怪の背に乗っていた人間は法衣姿だったらしく、そのような輩が戦と関係しているとも思い難く……」
「どちらにせよ、まだ安心はできぬということだな」
見失った妖怪を捜す兵たちの叫騒がここまで伝わってくる。伊織は眉をひそめた。
まさか妖怪の正体が猫との認識はないようで、上を下への大騒ぎである。
「おのれ、外法を扱う法師めが。こうしてはおれん。珊瑚どのが心配だ」
刀を握りしめ、きりりと眦を険しく唇を噛んだ伊織は、独り天守に残している珊瑚の身を案じ、足早に彼女のもとへと向かった。
「雲母。珊瑚の気配が掴めたのか?」
そわそわと周囲を見廻す雲母を注意深く見守っていた弥勒は、微かに期待を込めて問いかけた。
そんな法師に小さく答え、雲母は屋根の上から再び空中へと翔け上がる。
雲母が向かう先にはひときわ高い建物がそびえていた。
「あそこか?」
それはこの城の天守だった。
天守の小さな窓から、珊瑚は必死に外の様子を窺っていた。
遠くで獣の唸り声が聞こえたように思ったのは気のせいだろうか。
「雲母……?」
今度ははっきり聞こえた。
間違いなく雲母の声だ。
「雲母ーっ! どこ? あたしはここだよ!」
精一杯、天守の窓から身を乗り出して珊瑚は叫んだ。
空中を滑るように飛来する愛猫の変化した姿を見つけ、珊瑚の表情が安堵に緩む。
一方、天守の一番上の小窓の中に捜していた娘の姿を認めた弥勒の眼が大きく見開かれた。
「珊瑚っ! 珊瑚、無事ですか」
雲母に乗っているのが予想していた仔狐ではなく、探し求めていた法師であることに気づき、珊瑚もまた眼を見張る。
「珊瑚!」
「法師さまーっ!」
来てくれた。
何がどうなっているのかさっぱり解らなかったけど、迎えに行くのは自分だったはずなのだけれど、彼が迎えに来てくれた。
珊瑚はこみ上げる嬉しさが涙となってあふれ出しそうで、きゅっと唇を引き結んでこらえ、窓の外の法師に向かって手を伸ばした。
しかし、雲母の咆哮を聞いたのは珊瑚だけではなかった。
「あれは妖怪の声か? 珊瑚どのが危ない。──珊瑚どの、いま行く!」
珊瑚は背後にはっと意識を向けた。
家臣たちが見失った妖怪が天守近くにいるらしいことに気づいた伊織が梯子を駆け登ってくる足音が聞こえる。
「やだっ、あの若様にまた捕まっちゃう。どうしよう」
彼女自身も相当混乱して、まともな思考回路が働かないようだ。
また何だかんだと引きとめられて、側室になれだの子供を産めだの言われては敵わないと思った珊瑚は、小さな窓から無理やり外へ出ようとした。
といってもすぐ外に地面があるわけではなく、どんな小さな城でも天守といえばそこで一番高い建物なわけで、落ちたら死ぬ。──と思われる。
「たっ……!」
慌てて窓の上部に頭をぶつけた珊瑚は、そのとき、からん、と乾いた音が板張りの床に落ちたことに気がつかなかった。
「危ない、珊瑚! 身投げでもするつもりか!」
窓のところまで飛翔した雲母にまたがった法師が、叱咤するように言い放ち、彼女に手を差し伸べようとして、──息を呑んだ。
再会の嬉しさのためか、頭をぶつけたせいなのか、少し涙目になった珊瑚が頬を桜色に染めてこちらを見ている。
「珊、瑚……」
「法師さま」
ああ、なんて美しいのだろう。
着物や髪形がいつもと違うだけなのに、この娘はここまで美しくなれるのか。
この優婉な佳人と自分は相愛の仲なのだ。
どのような古の傾国もこの娘ほど己の心を揺さぶるまい。──と延々と続きそうな法師の感慨も、そう長くは続かなかった。
「何ぼーっとしてんの、早く引っ張って! 帯がつかえて出られないんだ。ちょっと、聞いてる?」
「えっ? あ、はい。って、おまえ、ここから出るつもりですか?」
「う、何とか出られそうだ。法師さま、後ろに乗せて。早くしないと追っ手が!」
「追っ手? おまえ、この城で何をしでかしたんです。城が騒がしいのはおまえのせいか?」
「あたしが何したっていうんだ。とにかく逃げるよ。……あっ、来た!」
危なっかしい体勢で窓から抜け出て雲母の背に移った珊瑚は、とりあえず法師の後ろに横向きに腰掛けたものの、ずり落ちそうになっていた。
「だから危ないって言ってるでしょう。落ちますよ、珊瑚」
弥勒は身をひねって彼女が座りなおすのに手を貸そうとしたが、珊瑚はそれどころではなく、彼の胴にしがみついてせかせかと背後を気にしている。
「珊瑚どの!」
「ほら、来ちゃったじゃないか! 雲母、行け!」
事態がよく呑み込めないながらも主人が困っているようなので、とにかく雲母は空中を翔けた。
「珊瑚、どの……」
天守に登った伊織は、そこにあの美しい娘の姿が消えているのを見て、愕然と手にした刀を取り落とした。
妖怪に連れ去られたのだろうか。それとも、妖怪を操る法師に?
心惹かれた娘を守れなかった自分の不甲斐なさが悔しく、目線を床に落としたとき、それに気づいた。
「これは、珊瑚どのが髪に挿していた──」
そっと手を伸ばし、伊織は、彼女が落とした紅珊瑚の玉簪を拾い上げた。
2008.4.27.