紅珊瑚の姫 −第五話−

 雲母に乗って三人は空路で帰途につく。
 雲母の首に抱きついて疲れて寝入ってしまった七宝が落ちないように気を配ってやりながら、弥勒の全神経は背後の珊瑚に向けられていた。
 いつもとは逆に弥勒の後ろに位置している珊瑚は、安堵からなのか、両腕を法師の身体に巻きつけ、彼の背に身を預けるようにしてもたれかかっている。
 頬すらぴったり押し当てている彼女の密着ぶりに、弥勒は、彼らしくもなく胸の高鳴りを持て余していた。
 今まで珊瑚が自分からここまで身を寄せてきたことがあっただろうか。
 泣かせた女は星の数──かどうかはおいといて、弥勒法師ともあろう者、これまでの女性遍歴を振り返ってみても、この程度で動じるはずはない。だが、今回ばかりは勝手が違った。
 勝手に頬が熱くなる。
 勝手に動悸が速くなる。
 七宝が寝ていて、珊瑚が後ろにいるのは幸いだった。
 どんな表情をしていることやら、それを他人に見られるのは彼の矜持が許さない。
 けれど、背中に感じる珊瑚のやわらかい身体の重みは、苦しいような切ないような、心がふわふわするような、心地好い甘さをもたらしてくれた。
「法師さま」
 不意に後ろから聞こえてきた夢見るような声音にぎくりとする。
「来てくれてありがとう。……あたし、嬉しかった」
「あ、ああ」
 事情はさっぱりだったが、彼にはそれよりも重大なことがあった。
(気づくな。気づいてくれるなよ)
 この体勢に珊瑚が気づけば、照れ隠しという衝動だけで、おそらく殴られる。
 下手をすれば雲母から落とされる。
 至福のひとときから地獄へとまっさかさまだ。
「おまえが無事でよかった」
 いささか硬い声で弥勒は答えたが、珊瑚は安心しきったように小さく吐息を洩らすと、彼の背に頬をすり寄せて、彼に廻した腕にきゅっと力を込めた。

 楓の家の前に到着すると、散歩にでも出ているのだろう、犬夜叉の姿もかごめの姿も見当たらなかった。
「着きましたよ、七宝」
「おお、そうか。……ふああ」
 まだ半分寝ぼけている七宝を地面に降ろしてやると、彼は大きく伸びをしながら家の中へ入っていった。
 珊瑚は雲母に腰掛けたままもじもじしている。
「どうしました、珊瑚?」
 ふと見遣ると、彼女は履き物を履いていない。
「草履……城に忘れてきちゃった」
 きまり悪げに視線を逸らす珊瑚に、弥勒はふっと微笑んだ。
「では、これを持って」
 珊瑚の左手に錫杖を持たせる。
「こちらの手はここへ廻して」
 娘の右側に立った弥勒は、彼女の右手を取って己の首に導き、自分の右手は彼女の膝裏、左手は脇の下に入れて、その身体を軽々と抱き上げた。
「えっ、やだ、ちょっと! 降ろして」
 顔中に朱を散らした珊瑚は小さく身をよじらせて抵抗する。
「だって、足が汚れてしまうでしょう?」
「……少しの距離だから、別に履き物がなくても」
「おまえのその姿は、かごめさまがわざわざ用意してくれたものと七宝から聞きました。おまえはそれを私に見せるために町まで来たと」
「べっ、別にっ──! 法師さまに見せに行ったわけじゃ……!」
 動揺を押し隠すように彼から視線を逸らした珊瑚の顔を、法師は覗き込む。
「しかし、そのような格好でふらふら出歩くのはちょっとどうかと」
「あ──やっぱり、変……だよね」
 急にしゅんとなる解りやすい珊瑚の反応が愛らしくて、弥勒は彼女に顔を近づけて小さくささやいた。
「こんなに美しいおまえを他の男には見せたくない」
 その言葉とどんどん近づく弥勒の顔に鼓動が大きく跳ね、反射的にぎゅっと眼をつぶったとき、ぱくりと鼻を咥えられた。
「……!?」
 眼を白黒させている珊瑚に、弥勒が悪戯っぽく笑う。
「お仕置きです。口づけされると思いました?」
「たっ、食べられるかと思った……」
 ぎくしゃくと答える珊瑚に「なんなら今から食べてあげましょうか?」と返した弥勒は彼女に持たせた錫杖で頭をしたたかに殴られた。

 土間から床の上に下ろされた珊瑚は、ありがと、とつぶやくと、錫杖を返し、家の外をついっと指差した。
「なんです?」
「外、出てて。着替えるから」
「えー、もう着替えるんですか? 勿体ない。せっかく似合っているのに」
「いいの。今日はもう疲れたし」
 この姿で彼の前にいるのが恥ずかしいから、とは言えなかった。
「では手伝ってあげましょう」
「何を?」
「脱ぐのを」
 まだおまえを見ていたい、とは言えず、法師はいつもの笑顔で本心を覆う。
「……ひっぱたくよ?」
 怒りと羞恥に頬に朱を昇らせる珊瑚は見事に騙されてくれたようで、弥勒はほっとして、いつものペースを取り戻す。
 彼女をなだめて外へ出ようとすると、背後で「あっ」と小さな叫びが聞こえた。
「どうした?」
「どうしよう、法師さま」
 珊瑚は泣きそうな顔で髪に手をやっている。
「ないの。簪。かごめちゃんが貸してくれた、綺麗な玉簪」
「玉簪?」
 弥勒は彼女に近寄り、彼女の後頭部の可愛らしい髷を見た。
「簪なんか挿していたか? 私が見たとき、最初からおまえは髪に飾りなどつけていなかったが」
「えっ、嘘」
 珊瑚の顔がみるみるうちに蒼ざめた。

 弥勒と珊瑚は、雲母に乗って、ついさっき飛行してきた空路を引き返している。すっかり眠り込んでしまった七宝は楓の家に残してきた。
 珊瑚は付け下げから自分の小袖に着替え、髪ももとの垂髪すべしがみに戻し、さらに飛来骨を持っている。
「珊瑚、わざわざ着替えずともよかったのでは?」
「だって、あの格好じゃ立ち回りができないし」
「立ち回り?」
「それに、いつ妖怪退治の依頼が入るか判らないし」
「? 簪を捜しにいくだけでしょう?」
 法師は不思議そうな顔をしたが、珊瑚は城での不愉快な出来事を思い出し、仏頂面を作っていた。

 城下町に着いた二人は、まず、弥勒が楓の代理で妖を祓った商家を訪ねた。
 うら若い娘を伴って戻ってきた法師に家人たちは驚いたが、快く迎え入れてくれた。
 居間に通され、すぐに楽しげな様子の奥方が二人の応対に現れた。
「突然、おしかけて申しわけありません。実は、忘れ物をいたしまして」
「まあ、法師さまが? いったい何を」
 恐縮して恥ずかしそうにうつむいている可憐な娘を見つめ、上品に老いた奥方は微笑を洩らした。
 楓と同じくらいの年齢か、少し年嵩のようだった。
「いえ、私ではなくて、この娘なのですが」
 珊瑚はますます恐縮し、頭を下げる。
「まあまあ、そんなに硬くならずに。可愛らしい娘さんだこと。法師さまとはどういう?」
 そんな何気ない問いに、珊瑚はさっと頬を赤らめた。
「ともに旅をしています。この娘、珊瑚も楓さまには随分とお世話になっております」
「こんな綺麗な娘さんと二人きりで旅を? 法師さまも隅に置けませんね」
「いえっ! 半妖と妖怪ともう一人女の子が一緒です」
 突然、顔を上げて答えた珊瑚の勢いに瞳を瞬かせ、法師はちょっと残念そうに苦笑した。
「……珊瑚。そんな力いっぱい否定しなくとも」
「だ、だって」
 奥方は鷹揚にほほほと笑っている。
「この町で大切なものを落としたというのね。構いませんよ。珊瑚さんの落とし物が見つかるまで、うちを拠点にしてくだされば」
「すみません」
「いいえ。法師さまにはまたお目にかかりたいと思ってましたの。お祓いには数日かかると思っていたので部屋もあります。なんでしたら今日は泊まってくださってよろしいのよ」
 恭しく──珊瑚の目にはわざとらしく──合掌してみせる法師をちらと横目で見遣った珊瑚は、おずおずと奥方に問いかけた。
「あの、ひとつ訊いてもいいですか」
「ええ、どうぞ?」
「この家に娘さんはいますか?」
「娘? 娘はみな嫁ぎましたが……何故そんなことを?」
「ああ、よかった。あ、いえ、何でも」
 一瞬、不思議そうな顔を見せた奥方だったが、使用人が呼びに来たので、そのまま座を外した。
 二人きりになると、法師はあからさまに憮然とした視線を向けてくる。
「そんなに私は信用なりませんか」
「うん」
 あっさりうなずかれ、弥勒はため息をつく。
「楓さまの代理で来たんですから、真面目に仕事をしてましたってば」
「ふうーん」
 やや疑わしげな眼で法師を眺める珊瑚を、彼は胡乱に見つめ返した。
「おまえこそ、あのような目立つ姿で町中をうろうろして人の噂になったりして。少しは私を信用しておとなしく村で待っていてくれても」
「だって法師さまに」
 ──逢いたかったから。すごく。
「法師さまのことだから、絶対浮気してるんじゃないかなーと思って」
 出されたお茶を泰然とすすり、弥勒はふと思い出したように話題を変えた。
「では疑いは晴れましたね。しかし、そもそも、なんでおまえは城の天守なんかにいたんです?」
「ああ、依頼があったんだ。妖怪退治の」
「天守に妖怪が巣食っていたのか?」
 珊瑚は少し眉をひそめて首を横に振った。
「妖怪なんていなかった。あたし、なんで呼ばれたんだろう?」
「履き物も忘れて天守から逃げ出したわけは?」
「依頼主が城の若様だったんだけど、そいつが全く話の通じない奴でさ。人の話は聞かないし、強引だし」
 珊瑚の表情がどんどん険しくなっていった。かと思うと、突如、彼女は屹と法師を見据えた。その眼光の鋭さにさしもの弥勒もややひるむ。
「最低な奴なんだよ? だって、言動が法師さまみたいなんだもん」
「あの。……それは、私が最低な奴、という意味でしょうか」
「えっ? そうじゃなくて。まるで法師さまみたいなこと言ったりしたりするもんだから、頭にきちゃって」
 そういえば、あたし、あの若様を足蹴にしたんだっけ……
 ついでに自分の行動を思い出し、珊瑚の表情がわずかに強張った。弥勒はそれを見逃さなかった。
「何を言われた?」
「法師さまがよくやること。手を握って子を産んでほしい、とか。妻になれ、とか。ああ、あと、お尻触られた」
「……」
 唖然とする法師を尻目に、珊瑚はむすっとお茶を飲む。
 はっとなった弥勒は手にしていた茶碗を乱暴に置き、衝動的に珊瑚の両肩を掴んだ。
「珊瑚。無事か?」
「無事だよ。見りゃ判るでしょ?」
「何もされてないな?」
「だから、お尻を触られたんだってば」
「それだけか?」
 周章狼狽して彼女の身体のあちこちを撫で廻し、触りまくる法師を珊瑚は張り倒した。
「何すんの! どさくさにまぎれてこのスケベッ」
 弥勒は安堵のため息をついた。──この様子だと、彼女の身には何事も起こっていないようだ。
 何者かが広縁をぱたぱたと走ってくる。
「珊瑚さん」
 障子が開き、息を切らせたこの家の奥方が顔を出した。
「あなたが落としたもの、確か、簪とか言ってなかった?」
「あ、はい。玉簪です」
 慌てて威儀を正した珊瑚が奥方を顧みる。
「玄関にお城の方が見えてるの。玉簪がどうとか言ってるわ。ぜひ話を聞いてみなさいな」
 お城と聞いて、珊瑚は弥勒と顔を見合わせた。

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2008.5.7.