酉の刻。
 雲母はまだ戻っていない。
 一度、珊瑚を待たせている宿へ戻った弥勒は、早めに夕餉をすませ、少女との約束の場所におもむいた。
 昼間は賑やかだった通りも、夕闇と静けさに染まり、路地へ入ると闇はさらに濃くなる。
 本当に少女がここへ来るのかも疑わしかったが、例の欠片への執着が、彼女の足をここへ運ばせるだろうと弥勒は思っていた。
 ふと、気配を感じ、上を見上げると、紅い瞳が二つ、薄闇に光るのが見えた。
「雲母」
 屋根の上にいる猫又に、こちらへおいでと手を伸ばすと、対する雲母は、声を出さずに、口の動きだけでみゃーおと鳴いた。
 不穏な気配が漂う。
 引けと、雲母は告げているのだと、弥勒は直感的に感じ取った。
「!」
 複数の足音がこちらへ向かってくる。
 弥勒は路地の陰に身をひそめたまま、表の通りを窺った。
「畜生! まやはどこだ」
「本当にその女はここへ来るのか?」
 興奮した様子の若い男が四、五人、険しい口調で言葉を交わしている。
「まやは、ここで法師と落ち合う約束をしていた。この辺りにいれば、きっと姿を見せるはずだ」
(まや……?)
 男たちの会話を聞く限り、まやというのが、宝玉の欠片を買おうとしたあの少女なのだろう。
 一人は、昼間、少女と一緒にいた男だ。あとの者は彼の友人だろう。皆、二十歳前後と思われる。
 法師はじっと息をひそめて、男たちの会話に聞き耳を立てた。
「まやのやつ、おれたち三人を手玉に取って、銭だけ持って消えちまった」
「何があったのか説明しろよ。女を捜せってだけじゃ解らねえよ」
「太助が殺されたってのは本当なのか?」
(殺された……?)
 物騒な言葉に、陰で聞いている弥勒はわずかに眉をひそめた。
「ああ、喉を掻き切られて死んでいた。役人を呼びに行かせたよ。まやがやったに違えねえが、あの女の顔を見ているのは、おれと太助と豊吉の三人だけだ。まやを見つけ出さなければ、女を買ったのがおれの作り話だと思われる」
「この町の女じゃねえんだろ?」
「旅の途中だと言っていた。町を案内してほしいと、自分からおれたちに声をかけてきたんだ」
「遊び女か」
「そんなふうには見えなかったが、そうだったのかもな。誘ってきたのも向こうからで、太助の家に行って、それから、三人分の代金を前払いした」
「おめえら、昼間っから女連れ込んでたのか? 豪商の息子ってのはいい身分だよなあ」
「遊んだ女に殺られるってのも、太助らしいよな」
 日頃の妬みもあってか、そんな揶揄を口にする者もいる。
「おい、時と場合を考えろ」
 誰かがたしなめ、話す声が小さくなった。
「太助んちで三人でやったのか?」
「いや、まやが一人ずつがいいと言ったんで、まず、太助とまやが離れにこもった。それっきりさ。おれは母屋の太助の部屋で豊吉と酒を呑んでたが、あまりにも待たせるんで、催促をしに離れに行ったら、太助が血まみれで倒れていたってわけだ」
「その直後に豊吉も消えちまったんだろう? まさか、銭を持って女と一緒に逃げたってことは……」
 遊び仲間の一人が不可解な死を遂げ、一人が行方不明。
 面妖な少女が絡む血なまぐさい事件に、男たちは蒼ざめ、声をひそめた。
「あいつに人が殺せると思うか? 幼友達を殺す理由がねえよ。それに、豊吉は女に不自由することのねえ色男だ。太助とまやを取り合ったとも考えにくい」
「もしかして、豊吉もまやって女に殺されちまったんじゃ……」
 男たちは不気味そうに顔を見合わせ、ごくりと唾を飲み込んだ。
「だが、その女はまだ小娘だって話じゃねえか。待ち合わせ相手の法師と最初から示し合わせて、おめえらから銭を巻き上げるつもりだったんじゃねえか? それか、法師が女に身を売らせて、銭を貢がせていたとか」
「ありえねえ話じゃねえな」
(おい、ちょっと待て)
 全く関係のない殺人の犯人にされてしまっては、宝玉の欠片を売る売らないどころの話ではなくなる。
 弥勒はそっと路地を裏へ抜けようと、踵を返した。
「……!」
 振り返ると、薄暗い路地の奥に、被衣をかぶり、たたずむ少女の影がある。
「まや──!」
 思わず名を呼びかけ、とどまった。
 表通りでは、その弥勒の声を聞きつけた男の一人が、路地を覗き、大声を上げた。
「ここだ! 法師がいるぞ!」
 らしくない己の失態に、弥勒は舌打ちをした。
 屋根の上の雲母は、そのまま身を引いたまやを追って、闇の中に消えた。
 殺されたという男の仲間たちが、法師を捕らえようと、わらわらと路地の奥に入ってくる。
 やむなく、弥勒は路地裏へと身を翻した。

* * *

 宿屋の部屋で、珊瑚は一人、夜具に横たわっていた。
 宝玉の欠片を売ると言って出かけた弥勒は、一度、戻ってきたものの、早々に夕餉をすませ、また出ていった。
 買い手と酉の刻に待ち合わせているという。
 しかも、買い手は年若い娘らしい。
(こんな時間に、若い娘に会いに行くなんてさ)
 雲母も帰ってこない。
 心配でたまらないが、起きて待っているのも癪に障る珊瑚は、やきもきしながら、夜具をかぶってふて寝していた。
 不意に宿屋の中の空気が変わった。
 微かな変化にはっとして、珊瑚は瞬時に神経を集中させる。
 この部屋の戸が音もなく開かれ、閉じられた。
 侵入者の正体がつかめず、夜具の中でじっと息を殺して構えていると、闇に抹香の香りが漂い、よく知った気配が、断りもなく彼女が身を横たえている夜具の中に身を滑り込ませてきた。
「法師さま?」
「しっ、静かに」
 彼の掌が彼女の口をふさぐ。
「ちょっ、法師さまの夜具は衝立の向こうだろ?」
「追われています。この宿に入るのを見られてしまったようだ。今、見つかるのは面倒なので、やり過ごすために協力してください」
「何があったの? 雲母は?」
「話はあとです」
 弥勒は襖の向こう側にいる男たちの動きを敏感に感じ取っていた。
 まやの仲間だと思われている以上、彼らは法師を捜し出そうと躍起になっているだろう。
「すまんが、声を出してくれませんか」
「は?」
「喘いでください。事の最中のように見せかけるんです」
「なっ──!」
 驚いて身を起こそうとした珊瑚の身体を、法師は褥に押し戻した。
「彼らは、たった今この宿に入った法師を捜している。夫婦者が事に及んでいる真っ最中だと思わせれば、この部屋には法師はいないと考えるでしょう」
「できるわけないだろ、そんなこと!」
「それらしい声を出してくれればいいんです」
「あんたが出せば?」
「……仕方ありませんな」
 弥勒は珊瑚に伸し掛かり、仰向けに横たわる彼女の耳をやわらかく食んだ。
「え……? え──あっ!」
 動転する珊瑚に構うことなく、彼は彼女の耳朶を唇でなぞり、触れるか触れないかという位置で、焦らすように舌先を這わせていった。
「待っ……やっ、んんっ……!」
 思わず洩れた嬌声に、弥勒は満足げに珊瑚の耳にささやいた。
「その調子」
「……っ!」
 屹と法師を睨みつけ、大声で抗議しようとする珊瑚の唇を、己の唇で弥勒はふさいだ。
 ことさら強く、音を立てて珊瑚の唇を吸い、彼女の呼気を奪い、ゆるやかに吐息を絡める。
 突然のことにうまく呼吸ができない珊瑚は、口づけの合い間に苦しげに喘ぎ、夜具の衣擦れの音も相俟って、法師の思惑どおり、襖の向こうの連中は本物の情事の気配を感じ取ってくれたようだ。
 男たちの気配が完全に去ってから、襖のほうを一瞥し、弥勒は動きをとめた。
「珊瑚、悪かったな。もういいですよ」
「……」
 反応のない娘を見下ろすと、彼女は瞳を潤ませ、脱力して、酔ったようにぼんやりと宙を見つめていた。
 薄闇でも判るその色めいた様に、弥勒の胸が妖しくざわめく。
 珊瑚のこんな表情を見るのは初めてだ。
──お望みなら、続きをしてあげますが?」
「……」
 甘く、悪戯っぽくささやかれ、はっと我に返った珊瑚は、真っ赤になって法師の頬を軽くたたいた。
「馬鹿っ」
 吐息を洩らし、弥勒はそのまま、珊瑚の身体に覆いかぶさるようにして力を抜いた。彼の重みを受け止める珊瑚は、狼狽えたように早口で言った。
「ちょっと。あっちで寝て。あたしは法師さまの敷布じゃないよ」
「……疲れた」
「法師さまってば!」
 弥勒はその体勢のまま、沈み込むように眠ってしまった。
 すうすうと聞こえてくる寝息に、珊瑚は呆れたように身を起こした。
「信じられない。あんなことしておいて」
 彼の身体を押しのけ、夜具から抜け出た珊瑚は、鼓動を鎮めようと胸元に手を当てて、眠る法師をじっと見つめた。
 まだ心臓がどきどきしている。
(……)
 珊瑚の指が己の唇に触れた。
 こんなに激しい口づけをされたのは初めてだ。
 頬が熱い。
 動揺が収まらない。
 障子越しの朧な月光だけが頼りの暗闇の中、珊瑚はそっと身を乗り出し、彼の身体に丁寧に衾を掛けた。そして、無防備に眠る法師の手を取り、その指に愛しさを込めて口づけた。
 そのとき、突然、障子紙に雨粒がかかるような軽い音がした。
 はっとして振り向くと、縁に面した障子に、二つの尾を持つ小猫の影が映し出されている。
「雲母」
 素早く立ち上がった珊瑚が縁側の障子を開けると、全身びしょ濡れの雲母がいた。
 雨は降っていない。
 今のは雲母が躯を振るわせて水滴を飛ばした音のようだ。
「いったい、どうなってるんだ。法師さまも雲母も」
 珊瑚は褶を外し、それで雲母を包むようにして、猫又の濡れた躯を拭いてやった。
 雲母が甘えるように、小さな声で、みう、と鳴いた。
「ご苦労様、雲母。でも、法師さまはよく眠っているし、おまえも疲れただろう? 今夜は休もう」
 雲母を抱き上げた珊瑚は、眠る法師へ労わるような視線を投げ、衝立の向こうの夜具の中に雲母と一緒に身を横たえた。

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2015.9.14.