弥勒は水の中にいた。
水の中だが、呼吸はできる。
ひんやりとした冷たい空気。
だが、これは空気なのだろうか。水なのだろうか。
周囲は淡い狭霧に包まれ、上を見上げると、遥か高い位置に水面が見えた。
「愛しいお方、お待ちしておりました」
なよやかな女の声に、弥勒は前方を見遣る。
波のように霧が漂い、女の姿は朧な影にしか見えないが、彼女が優雅に被衣を取ると、その身を包む狭霧が無数の真珠色の気泡となり、きらきらと水面へ舞い上がって、美しい姿が露わになった。
大輪の牡丹の花が咲いたような、あでやかな美女だ。
まだ、二十歳になっていないだろう。
抜けるように白い肌、血のように紅い唇。淡縹、淡青といった寒色で白地に波が描かれた、上品な絹の小袖をまとっている。
弥勒は魅入られたように、じっと娘を見つめていた。
しかし、
(なんだ、この禍々しさは)
こうして彼女を見ているだけで、精気を吸い取られていく気がする。
その妖しさは尋常ではない。
「私は真名と申します」
「……真名?」
「水に封じられ、この水の城に閉じ込められているのです」
真名が後ろを顧みると、濃い霧の中に、塔のような建物の影が朧に見えた。
「囚われの身を憐れとお思いなら、私を救ってくださいまし」
「どうやって?」
「私を愛してくださればよい」
真名が法師に白い手を差し出すと、その仕草にいざなわれるように、弥勒は、一歩、前へ進んだ。
「さあ」
もう一歩。
その妖しさに吸い寄せられるように、法師は真名の手を取ろうと、無言で足を進める。
だが、伸ばした指先が、あと少しで真名の手に触れようとしたとき、おびただしい真珠色の気泡が二人を隔て、あっという間に法師の視界を覆ってしまった。
「真名……!」
叫んだ弥勒は、目の前にあった手を掴んだ。
「……」
そして、はっと固まった。
目の前にいたのは珊瑚であり、ここは宿屋の一室だ。
夜具の中で眼を覚ました弥勒を心配そうに覗き込んでいた珊瑚は、己の手を掴んでいる法師の手を見て、一瞬ののち、怖い顔になった。
「真名って、誰?」
「え……」
起き抜けで頭がうまく回らない弥勒に、珊瑚は憮然として言った。
「昨日、欠片を買った娘? 昨日の今日で、夢に見るほどの仲になったわけ?」
「昨日の娘は、真名ではなく、まやです」
「じゃあ、真名って誰よ?」
ゆっくりと寝床に身を起こし、弥勒は重たげに頭を振った。
「夢に出てきたおなごが真名と名乗った、それだけですよ」
「その人の名前を呼んで、手を掴もうとしたよね。引きとめるみたいに」
弥勒は前髪をかきあげ、疲れたように珊瑚を見て、ふっと笑んだ。
「朝っぱらから焼きもちですか? では、もう美女の夢を見ないよう、今夜は珊瑚が添い寝でもしてください」
「話を逸らさないでよ。……スケベ」
夕べのことを思い出し、珊瑚は赫くなって、法師から眼を逸らした。
まだ、朝の早い時刻だ。
二人は夜具をたたみ、衝立と一緒に壁際に寄せて、改めて腰を下ろした。
「珊瑚。あの欠片ですが、実はまだ、売れていないんです」
「え、そうなの?」
「買い手のまやという娘が、妙な事件に関係しているようで、こちらまで巻き込まれてしまいそうになり、逃げてきたんですよ」
弥勒は、昨日の出来事をそのまま珊瑚に語った。
まやとの取り引きの場に現れた男たちと、彼らの会話。警戒を促すような雲母の様子。逃げたまや。
そして、まやと会う約束をしていたため、まやの仲間にされてしまったこと。
「で、追っ手をやり過ごすために、おまえにあのようなことを」
思わせぶりな口調で話を締めくくる法師に、珊瑚はいくぶん居心地が悪そうに頬を赤らめた。
「ねえ、法師さま。もう欠片を売るのはやめて、帰ろうよ」
彼女は心配そうに言った。
「法師さま、ひどくうなされてたよ。昨日から体調がよくないんだろう? 顔色だって悪いままだし、楓さまの村で、しっかり休んでほしい」
「まあ、少々だるいが、私は大丈夫ですよ」
弥勒の手が、傍らにちょこんと座っている猫又の背を撫でた。
「ただ、まやの目的が気になるな。何故、欠片を欲しがったのか」
「雲母は、そのまやという娘を追っていたんだろう? 夕べ、びしょ濡れになって戻ってきたんだ。でも、どうしてだろう。雨は降っていなかったのに」
「びしょ濡れ?」
その言葉に、何か引っかかった。
弥勒は記憶をたどるように眉根を寄せる。
「……水……」
狭霧に包まれた、水の中の光景。
きらきらと舞い上がる真珠色の気泡の中にいた美しい人。
「真名だ」
「え?」
怪訝な様子の珊瑚に、弥勒は向き直った。
「夢に出てきた真名は、水の中にいた。あの欠片を拾ってから、私は二晩続けて同じ夢を見ています。そして、欠片を買おうとしたまやを追っていた雲母が、びしょ濡れで戻ってきた。私と真名を夢が繋げ、真名とまやを水が繋げている」
「そして、法師さまと二人の女を繋げているのは、あの欠片?」
「そうです」
「じゃあ、真名とまやは同一人物?」
真剣な弥勒の様子に、珊瑚は驚いたように眼を見張った。
「いや、顔が違う。雰囲気も」
「まやが向かった先に、真名という女も実在すると思うの?」
「おそらく」
弥勒の口ぶりは淡々としていたが、珊瑚は気遣わしげに彼を見つめた。
「法師さまは、真名もまやも人間じゃないと思うんだね?」
「ええ、その可能性は高い。だとしたら、放ってはおけないでしょう? 一人が殺され、もう一人は行方知れずなんです」
珊瑚は考えるように眼を伏せた。
「じゃあ、あたしが雲母と調べてくる。法師さまは、この宿で待ってて」
「おまえ一人で行く気ですか?」
「だって、法師さまの体調が心配だもの。それに、雲母が一緒だし」
「珊瑚の気持ちは嬉しいが、私も行きます。この町にとどまるわけにはいきません」
「どうして? 相手が美女だから?」
「……おまえねえ」
法師は額を押さえ、ため息をつく。
「夕べの男たちは、殺されたのは豪商の息子だと言っていました。つまり、父親は町の有力者です。息子の友人が、まやという娘と旅の法師が怪しいと言えば、弁解の余地なく私はまやの仲間にされ、人殺しにされてしまいます」
弥勒は立ち上がり、縁に面した障子を細く開け、外の様子を窺った。
「これ以上、町が騒がしくなって身動きが取れなくなる前に、一刻も早く宿を出て、まやの行方を追いましょう」
「解った」
しぶしぶ、珊瑚も同意した。
法衣姿では見咎められるだろうと、こっそり宿屋を出た弥勒は、町の外で珊瑚と待ち合わせ、彼女が宿で作ってもらった握り飯などで、簡単な朝餉をすませた。
珊瑚は退治屋の装束に着替え、それから、二人は変化した雲母に乗って、昨日、雲母がまやを追跡した道を、もう一度、雲母に辿ってもらうことにした。
しばらく飛行を続け、雲母が降り立ったのは、低い山の中だった。
その山の中の林を、二人は雲母について歩いた。
普段、人が入ってくることなどないだろうと思われる木立の間を、変化を解いた猫又はとことこと進んでいく。
程なく行き止まりになって、雲母は立ち止まった。
「これは迂回しなければな」
正面は頂上へ続くなだらかな崖のようで、斜面には枯れ葉などが積もり、草が生えているが、人間が登れる勾配ではない。
だが、雲母は法衣の裾を咥えて、引っ張った。
「この上ではなく、ここなんですか?」
訝しげに弥勒が問うと、みゃう、と雲母は肯定する。
「でも、何もありませんが」
「法師さま、ここだけ、石が積まれている。かなり古いもののようだけど」
珊瑚の示す場所を見ると、土の斜面の一部が石積みになっている。
高さは弥勒の胸くらい、あまり幅もない。
例えば、小さな洞穴の入り口を石でふさいだような印象だが、どこか不自然ではあった。
「これが入り口? でも、入れるような場所なんて」
石積みの壁をたたきながら珊瑚が言うと、雲母は石積みの右下の小さく欠けた部分を示して鳴いた。
弥勒と珊瑚はその場にしゃがむ。
積まれている石の一部分が朽ちて欠け落ち、小さな隙間を作っている。
「もしかして、雲母、ここから中へ入ったの? でも、いくらおまえでも、この隙間は狭すぎやしない?」
「猫は信じられないほど細い場所でも通りますからな。人間だと、腕一本がやっとですよ」
地面に腹ばいになった弥勒が、右手をその空間に入れてみる。
「ちょっと、法師さま。大丈夫なの?」
「……」
あまりに無造作な彼の行動に、珊瑚が心配げに声をかけたが、弥勒は無言のまま、眉をひそめ、手を引いた。
「……冷たい」
「え?」
「中の空気は水のように冷たい。昔の氷室の跡だろうか」
「空洞だったの? 石や岩や、土もなかった?」
「ひやりとしました。冷たい水の中に手を入れたように」
「水が溜まってたのかな」
立ち上がった弥勒の右手を、飛来骨を置いて、珊瑚は両手に取って確かめた。
「濡れてない。でも、手がかりは水だろう? 仮に雲母がこの中に入って濡れたのなら、法師さまの手も濡れてなきゃ」
すると突然、雲母が変化した。
「雲母?」
「こういうとき、雲母が口が利けんのはもどかしいな」
「大丈夫。雲母の意図があたしたちに伝わらなかったことなんて一度もない。移動しようって言ってるんだよ」
有能な猫又は、自分が見たままのことを二人に伝えようとしているらしい。
法師と珊瑚が雲母の背にまたがると、雲母はふわりと空中に舞い上がった。
斜面の上に出たとき、景色は一変した。
「……!」
二人は息を呑む。
当たり前の山の景色が続いているものと思っていたのに、そこは一面の湖だった。
「水……」
鏡のような湖面が、ただ静かに蒼穹を映している。
だが、変だ。
この山より高い周囲の山々も、頂上まで続くこの先の斜面も、林の木々も、見えるはずの景色が、一切見えない。
雲母に乗った弥勒と珊瑚は、無言で顔を見合わせた。
あるのは蒼い空と白い雲、そして、蒼く澄んだ水のみ。
静まり返った湖面は、時間すら止まっているような錯覚を起こさせ、見る者を不安定な気分にさせた。
2015.9.25.