鏡のように澄んだ一面の水。
雲母の背に乗った弥勒と珊瑚は、呆然と、眼前に広がる蒼い湖水を見下ろしていた。
「雲母……おまえは、この湖に潜ったの?」
ややあって、発せられた珊瑚の声は少し硬い。
肯定を意味する声で鳴いた雲母は、すぐに軽く首を振った。
「潜ったけど、でも、何も見つけることができなかったんだね」
雲母は珊瑚のほうへ首を回して、うなずいた。
そのとき、湖面を凝視していた弥勒は、水中にゆらりと細長い影のようなものが揺らめいた気がして、わずかに眼を細めた。
(魚? いや、縄のような……くちなわ?)
水蛇だとしたら、この湖の主だろうか。
「雲母、あの辺りまで行ってくれますか?」
錫杖の先で位置を示す。
「何か見えた? 法師さま」
「ああ、何かの影が。雲母、できるだけ水面に近づいて。そう、この位置をしばらく保っていてください」
空中に浮かぶ雲母の背から身を乗り出し、弥勒は水中に見た影を確かめようと眼を凝らした。
「気をつけて、法師さま」
珊瑚は彼が持つ錫杖をしっかりと掴んで、落ちないように法師を支える。
弥勒は水面へ片手を伸ばした。
鏡のような湖面に、覗き込む彼の顔と、伸ばした手とが映り込む。
と、一瞬、水面が揺らめき、そこに映る弥勒の顔が、あでやかな美しい娘の顔になった。
(真名──?)
幻影だ。
だが、はっとした次の刹那、娘の瞳が弥勒を見据え、紅い唇が妖しく弧を描いた。水に映った弥勒の手は真名の手となり、湖面から流れるように現れ出て、水面へ伸ばされた法師の手を鋭く掴んだ。
「……!」
女とは思えぬ、すごい力だ。
雷のような音がとどろき、水面が落ちた。
雲母を中心に、何十畳もの広さの湖面が、突如、落下して滝壺となり、掴まれた手を引かれた弥勒は真っ逆様にそこへ落ちた。
「法師さま!」
すでに真名の幻はない。
ただ、重力に引かれ、滝壺の底へと落ちていく法師を追って、珊瑚を乗せた雲母も、ほぼ垂直に急降下した。
どれだけの距離を落ちたのか、落下する法師に追いついた雲母は、どうにか背中に彼の身体を受け止めた。
法師を受け止めた衝撃に耐え、飛来骨と錫杖を持つ珊瑚が、彼の身体をも必死に支える。
落下の衝撃で、薄れそうになる意識の中で、小さく呻いた弥勒は、すぐに顔を上げ、心配そうに彼を見つめる珊瑚を見て、
「真名」
と言った。
たちまち珊瑚の表情がむすっとなる。
「今度、あたしのこと、真名って呼んだら、法師さまだけ水の中に落として帰るから」
その拗ねた声音に、猫又の背中で彼女の前に腹這いになっていた弥勒は、慌てて体勢を立て直し、珊瑚の肩を掴んだ。
「いや、違う。いたんだ、真名が。水面に顔が映った」
珊瑚は驚いて眉をひそめた。
「いたって、湖の中に?」
「実体ではなかったが……」
法師は前を向いて雲母の背に座り直し、二人は辺りを見廻した。
湖の一部が滝と化し、滝壺が出現したときの、あの落雷のような激しい音は消えている。
四方八方、水の壁だが、辺りは静かだ。
「あたしたち、湖の中に落ちたの?」
「そうらしいな」
上を見ると、遥か頭上に水面が見えた。
「水が閉じてしまったようだ。一種の結界なのだろうか」
「でも、息ができる。話すことも」
水煙が舞い、漂う狭霧が波のように揺れている。
大気はひんやりと水のように冷たいが、身体が濡れることはなかった。
「ああ。不思議だが、私が夢で真名を見たのはこの場所だ」
ふと、生臭い風が吹いた。
「嫌な風だね」
「見ろ、珊瑚。建物だ」
霧が風で流れ、霧の向こうにある朧な建物の影が、次第にはっきりと姿を現してきた。
建物は、いくつもの層になっている。
檜皮葺の屋根、朱塗りの柱に白い壁。八角形の各階層を、朱色の高欄がぐるりと取り巻いている。層は上にも下にも続き、まるで仏塔のようだ。
「真名が囚われている水の城だ」
「入ってみる?」
「もちろん」
霧を分け、二人を乗せた雲母は建物のほうへと近づいた。
見下ろすと、建物の層は肉眼で確かめることができないほど下へと続いている。
「湖底に降りるのは危険だ。雲母、できるだけ湖面に近い、最上層の高欄へ降りて」
珊瑚の指示に従って、雲母は仄蒼い狭霧の中を上昇した。
そのとき、弥勒は目の端に、小柄な娘が建物の高欄に手をかけてこちらを見ている姿を捉えた。
(! まや──)
そのまま上昇を続けた雲母は、なめらかに最上層に到達し、朱塗りの高欄の内側に降り立った。
滝に囲まれた外と同じく、建物の内部も森閑としていた。
弥勒は錫杖を、珊瑚は飛来骨を、注意深く握りしめる。
「珊瑚。くれぐれも気をつけてください」
「気をつけなきゃいけないのは法師さまのほうだろう? 相手は美女なんだから。惑わされないでよ」
「はいはい」
室内には古風な調度が並び、盃や瓶子、高坏などが乱雑に放置され、派手に飲み食いしたあとのように見える。が、今は静かだ。
「誰もいないのかな」
「いや、いますよ。あの向こう」
正面に置かれた几帳を、弥勒は見遣る。
弥勒と珊瑚がそちらへ進むと、引き回した几帳の向こうには夜具が延べられ、夜具の中には、肌小袖姿の男がしどけなく寝そべっていた。
妖怪ではない。人間だ。
若く、なかなかの美男子である。
虚ろに眼を開けてはいたが、二人が几帳の中に入っても、ぐったりと褥に横たわったまま、起き上がろうとしない。珊瑚は心配そうに飛来骨を置いて、片膝をつき、男へ声をかけた。
「ちょっと、あんた。大丈夫?」
顔は土気色で、衰弱しきっている様子だ。
「具合が悪いの? 病気?」
「あの、珊瑚。言いにくいのですが、これは病気ではありませんよ」
遠慮がちな法師の声に、珊瑚は訝しげに彼を振り返った。
「どうしてそう言い切れるのさ。こんなに疲れた様子で、顔色もひどく悪いのに」
弥勒は寝乱れた男の肌小袖や夜具の様子を眺め、軽くため息を洩らす。
「思うに、これは、その……おなごと、かなり楽しんだあとではないかと」
「楽しむって?」
弥勒はこほんと咳払いをしてみせた。
「状況を見れば、何が行われていたか、一目瞭然でしょう?」
言われて、珊瑚は改めて室内の様子を確かめた。
乱れた夜具や男の肌衣。
二人で宴をしたかのような器の数々。
脱ぎ捨てられた男物の衣と、無造作に置かれた女物の小袖。
それらを確認した珊瑚は、ほんのりと頬を染め、黙って立ち上がって、弥勒の後ろに下がってしまった。
微かな動揺を隠せない娘を弥勒は片手で軽く抱き、彼女を落ち着かせるように、背中をとんとんと叩いてやる。そして、几帳を動かし、その場所に風を入れた。
こもった空気が、ひんやりとした大気に流れる。
変化を解いた雲母も二人のそばに寄ってきた。
「あらかた精気を吸い取られたみたいですな」
珊瑚に代わり、弥勒は寝そべる男の傍らに膝をついた。
「意識はありますか? 私の声が聞こえるか?」
「……はい」
男は力なく答えた。
「真名、というおなごを知っていますか?」
「真名」
その名に反応した男は、憧れるように眼を細め、うっとりと女の名を繰り返した。
「あれほど美しい人を、おれは知らない」
吐息のような男の声が、気だるげにつぶやく。
「美しいばかりか、真名どのは技も躰も極上。その味は、とろけるような蜜の味だ」
ほう、と法師は、興味を引かれたように男に顔を近づけた。
「そこのところを詳しく」
「法師さまっ!」
柳眉を逆立て、珊瑚は弥勒の腕を掴み、彼の身体を引っ張って立ち上がらせた。
「真面目にやってよ! っていうか、この人の疲れた様子がそういう理由なら、法師さまの顔色がすぐれないのも、もしかして、夢の中で真名って女と──!」
「残念ながら、そこまでは」
珊瑚の表情がどれほど険しくなっても、弥勒のほうは、むしろ珊瑚の反応を楽しんでいるふうである。
再び男の傍らに膝をつき、弥勒は彼に問いかけた。
「あなたの名は?」
「豊吉」
「豊吉?」
どこかで聞いた名だと思い、すぐに、町で殺された男の、行方知れずになった友人の名前だと思い出した。
「豊吉どのは、では、まやという娘にここへ連れてこられたのか?」
「まや……?」
「町で、あなたが友人たちと買った年若い娘のことです」
「ああ、まや。まやはおれに用があったんだ。まやが仕えている女主人がおれを見初めて、おれに焦がれていると。だから、おれを迎えに来たと言っていた」
「まやの主人が、真名ですか?」
「町でまやに声をかけられ、太助たちと三人でまやと遊ぼうということになったが──だが、まやの目的はおれだという。まやに促されるままに、太助の家を抜け出して、まやはおれを連れてここへ──」
太助が死んだことは知らないらしい。
散乱している椀や酒器の中に水を見つけた珊瑚が、それを椀に汲んで持ってきて、豊吉に飲ませた。
珊瑚に身体を起こしてもらい、水を飲み、ようやく彼は頭がはっきりしてきたようだ。だるそうに顔を上げて、自分を見つめる法師と娘を交互に見遣った。
「あなた方も真名どのに仕える人たちですか? にしては、妙ななりだが……」
法衣姿の青年はともかく、珊瑚の装束が奇異に映ったらしい。
「豊吉どの、真名はどこに?」
「先ほど、侍女のまやが呼びに来たような」
「では、今のうちにどこかに隠れて」
「隠れる?」
豊吉は不思議そうに法師を見返した。
「おれは、真名どのの婿として、この屋敷に迎えられたんです。どうして隠れねばならないのです?」
真名が妖怪だという確証があるわけではないが、若者が精気を吸い取られていることだけは間違いない。
弥勒は辛抱強く説明を続けた。
「このままだと、あなたは真名に取り殺されてしまいます」
「取り殺す? 真名どのが、おれを?」
「現に、これほど衰弱しているではないですか」
さすがに照れたように、豊吉は肌小袖の衿元を両手で正しながら言った。
「これは、その、昼夜を通して契りを交わしていたからで、お恥ずかしいが、真名どのの色香には抗えません。真名どのの味は、一度味わうと忘れることができないほど強烈で──」
居心地悪そうに顔を伏せる珊瑚に気づいた弥勒は、わざとらしく咳払いをし、話題を変えた。
「そもそも、豊吉どのは、この空間を不思議だと思わないんですか?」
「空間? 確かに、たいそうな屋敷ですが、建物全体が滝殿になっているだけですよ」
と、豊吉の答えはどこまでも危機感がない。
建物の階層がずっと下まで続いていることを知らないのだろう。
窓の外に見えるものは、漂う狭霧と流れ落ちる水の壁。周囲をこれほどの規模の滝に取り囲まれているというのに、音は静かだ。
滝殿と言ってしまえばそれまでだが、何より、ここの空気が尋常ではない。
「真名は、水に封じられた囚われの身だと言っていました。人間が水に封じられたりするでしょうか。もし、真名が人間ではないとしたら、それでも、豊吉どのは真名の婿になるつもりですか?」
豊吉ははっとした。
「確かに。あれほどのおなごだ。人間ではないかもしれない」
「だったら──」
豊吉は、怖いくらい真剣な表情で法師の顔を凝視した。
「あの人は、囚われの天女かもしれません」
「……」
この豊吉という若者は、完全に真名に参っているらしい。
「……おなごに夢を見過ぎですな」
「法師さまだって、似たようなもんだろ?」
弥勒と珊瑚は、呆れたようにささやき合った。
2015.10.6.