「珊瑚。こいつはもう放っておいて、真名かまやを捜しに行きましょう」
「この人を一人で放ってはおけないよ。どこかの法師みたいに救いがたい助平でも、無事に連れて帰ってやらなきゃ」
 顔を寄せ合ってひそひそとささやきを交わす法師と娘を、豊吉は怪訝そうに見つめている。
「何の話ですか? あの、あなた方は、この屋敷の人ではないのですね?」
「ああ、申し遅れました。私は法師の弥勒と申します。この娘は……」
「妖怪退治屋の珊瑚です」
「はあ」
 豊吉は、わけが解らないながらも二人に軽く会釈した。
「私たちはこの屋敷の人間ではありません。ここへは、招かれたとも、迷い込んだとも言えません。しかし、関わってしまった以上、放ってもおけない」
 弥勒は周囲を見廻した。
 広々とした部屋は、几帳や屏風などの障屏具で仕切られており、隠れるような場所もない。
 最上層はこの一室のみのようだ。部屋の周囲をぐるりと八角形の広縁が巡り、朱塗りの高欄の外に見えるのは、四方八方、水の壁──滝だ。
 弥勒は錫杖を置いて立ち上がった。
「あなたの恋路を邪魔するつもりはありませんが、この屋敷に婿として留まることを決めるのは、あなたの真名どのが人間なのか天女なのか、確かめてからでも遅くはないでしょう」
「何を言っているのです? まるで、真名どのを邪悪な何かのように」
「それを確かめたいだけです」
 重厚な屏風のそばへ、弥勒は近寄った。
「珊瑚、手伝ってくれ」
「あ、うん」
 立ち上がった珊瑚と、大きな屏風を二人で動かす。
 それを部屋の隅の壁際まで寄せ、隠れられる空間を作った。
「法師さま」
 屏風の裏側に何枚かの破魔札を貼る弥勒に、珊瑚がそっとささやいた。
「真名が人間かどうか確かめるって、どうするつもりなの?」
「簡単です。破魔札が効けば、それは人ではない」
 弥勒は事もなげに言う。
「この屏風の陰に豊吉どのを隠し、真名が戻ってくるのを待ちます」
「まさか、堂々と真名の前に出るつもり?」
「そうです。夢を通じて、真名は私のことを知っているはず。この水の城へも、真名の幻に導かれて入った。先程、建物の中にまやらしきおなごの姿も見ました。私たちがここにいることは、すでに知られているでしょう。珊瑚は雲母と豊吉どのと、この屏風の後ろに隠れていなさい」
「法師さまが危険だ」
 眼を伏せた珊瑚は、眉をひそめた。
「心配いりません。ここには、珊瑚も雲母もいるのだし」
「そうじゃなくて」
 珊瑚はもどかしげに首を振った。結い上げた長い髪が、彼女の背に揺れる。
「真名は、きっと法師さまを誘惑する」
「それが真名のやり口のようだからな」
「ま、真名の色香に、法師さまはきっと骨抜きにされてしまう。あの人の話を聞いただろ? 抵抗できないほど、美しい女なんだよ?」
 屏風の陰から、几帳の向こうで気だるげに衣をまとう若者のほうを覗き、珊瑚は苛々と小声で言った。
「夢で見たので、顔は知っている。確かにとても美しい人です」
 珊瑚の眦が屹となる。
「だったら! あたしが真名を待ち伏せるから、法師さまが隠れて」
「向こうが色香で相手を惑わせるのを常套としているなら、私が囮になるほうがいい。おなごの珊瑚が前に出ては、徒に相手を警戒させます」
「嫌だ。本当に惑わされて、法師さまが真名の虜になったら──
 向きになる珊瑚の様子に、弥勒はため息を洩らした。
「どうしても私が信じられんのだな」
「だって……!」
「安心しなさい。私が真名の虜になることは決してありません」
「どうしてそう言い切れるのさ」
 心配げな娘の耳に、法師はそっと唇を寄せた。
「だって、おまえがいるでしょう? 私はもう珊瑚に囚われているのだから、他のおなごに惑わされるなどあり得ません」
「!」
 不意打ちの言葉に珊瑚は真っ赤になる。
「そっ、そんな口先だけのこと──
「何故、口先だけだと思う?」
 弥勒の声が低くなり、珊瑚は不機嫌そうなその声音に逆らうように、屹と彼の顔を見上げた。その途端、いきなり彼の顔が近くなり、吐息が彼女の唇に触れた。
「……っ!」
 鼓動が跳ねた。
 強い力で二の腕を掴まれ、唇が重ねられたのだと理解するより先に、気が遠くなっていく。
 部屋の隅の屏風の裏で、彼女の動きを封じた弥勒は、少しの間、珊瑚と唇を合わせたままでいた。

 二人が屏風の後ろから出てきたとき、豊吉は、きちんと小袖と袴をまとって、雲母と褥の上に座っていた。
 まだ顔色の悪い若者を促し、弥勒と珊瑚は、彼を破魔札を貼った屏風の後ろまで連れていく。
 そして、そこに豊吉を潜ませた。
「ここに、珊瑚と一緒に隠れていてください。屏風の裏に破魔札が貼ってある。間に合わせですが、結界の代わりになるはずです」
「法師さまは、いったい何をする気ですか」
「私が豊吉どのに代わり、夜具の中で真名を待ちます」
「えっ?」
「夜具って……そんなこと、聞いてないんだけど、法師さま!」
 勢い込む珊瑚を弥勒は軽くいなす。
「でも、あの人はおれと夫婦になる約束をしているんです。法師さまが夜具で待つというのはどういう……」
「真名どのが私の誘いに乗るか試すのです」
「法師さまっ!」
 珊瑚が咎めるような声を出し、豊吉は顔色を変えた。
 はっきりと口には出さないが、法師が真名に手を出すのではないかと、それを心配しているのは明らかだ。
「試すだけです。それ以上のことはしないと誓います」
「そんな言葉は信じられない。聖人君子とて、真名どのの色香に抗えるものか!」
「私より真名どのを、どうして信じないんです」
 先程、珊瑚と交わしたのと同じような会話が繰り返され、弥勒はじれったそうに吐息をついた。
「こちらにも事情がありまして、真名どのに手など出そうものなら、この娘に愛想を尽かされる。それだけは絶対に避けたいので、そうなることはありません」
 珊瑚の睫毛が小さく瞬く。
 弥勒が決然と豊吉を見た。
「豊吉どの。あなたも男なら、ここに隠れている間くらい、この娘を守ろうというくらいの気概を見せなさい」
 驚いたように豊吉が法師を見、珊瑚を見たので、彼女は恥ずかしげに顔を伏せた。だが、そんな法師の物言いが、珊瑚には何となく嬉しい。
 生臭い風が吹いた。
「お出ましのようだな」
 法師は珊瑚と視線を交わし、軽くうなずき合う。
「雲母、珊瑚と豊吉どのを頼む」
 娘の肩にいた雲母が、みゃう、と答え、ひらりと床に降りた。
「いいな、珊瑚。何があっても、私を信じて」
「う、うん」
 ついさっき、与えられた口づけの熱がよみがえり、珊瑚は法師から眼を逸らし、己の唇にそっと触れた。
 飛来骨を持つ珊瑚と豊吉、そして、雲母を屏風の後ろに残し、法師は部屋の中央に戻った。几帳を少し動かし、屏風の陰からも夜具の位置が見えるようにする。
 そして、傍らに錫杖を置いて、寝床に座した。
 ひんやりと冷たい空気。
 涼しげな滝の音が遠くに聞こえる。
 森閑とした空間に、ほどなく、さらさらと衣擦れの音が湧いた。
 褥の上に座したまま、弥勒は顔を上げた。
「……」
 水煙の舞う一面の滝を望む朱塗りの高欄が巡らされた広縁に、うら若い娘が一人、たたずみ、弥勒を見ていた。
 清らかな水に漂う、あでやかな牡丹のようなたたずまい。
 その姿は匂い立つように美しい。
 つやつやとした長い黒髪を垂らし、白い肌小袖の上に、波を描いた上品な小袖をなよやかに羽織っている。十七、八に見えるが、年に似合わぬ妖艶さを漂わせていた。
「やっと、お会いできましたな。──真名どの」
 弥勒の言葉に、娘は嫣然と微笑んだ。
「愛しいお方、お待ちしておりました。やはり、私を覚えておいでですのね」
 柔和な表情で、平然と、弥勒も答えた。
「二度ほど、お見かけしたことが。いえ、今日で三度ですな。ここへ招き入れてくださったのは、あなたご自身ですか?」
「私自身、というより、法師さまがお持ちの物が、水城の門を開けたのです。ここまで来てくださったということは、私を救ってくださいますの?」
 艶な眼差しで法師を見据え、娘はさらさらと歩を進めた。
 ゆるやかに広い室内を滑るように進み、几帳のそばの夜具に座る弥勒のもとまで、真名はやってきた。
 少し首をかしげ、立ったまま、笑む。
 血のように紅い唇がやわらかな弧を描き、甘い吐息が洩れ、刹那、わずかに弥勒が眉根を寄せた。
「さあ、私をここから解放してくださいまし」
「私は何をすれば?」
 鷹揚に問う法師に、ほほ、と真名はあでやかな笑みを洩らした。
「閨に二人きり。野暮なことは申されますな」
「あいにく、法師とは説教くさく野暮なものです。私はあなたの素性が知りたい」
「まあ」
「それに、婿殿がおいででしょう? 豊吉どのはどうなさる?」
「そう、豊吉どの。つい先程までここにおりましたが、本当に、どうしたのでしょう」
 可憐に周囲を見廻し、眉をひそめる真名の様子は、本当に屏風の後ろの人の気配に気づいてはいないようだ。
 即席で作った破魔札の結界は効果があるようだった。
「そのうち見つかりますわ。逃げようがありませんもの。豊吉どのには、もう充分に尽くしていただきましたから、あとは肝をいただくだけです」
「肝?」
「ええ。ここに封じられた私が解放されるためには、水の中から出ねばなりません。一人、男の精気を吸い、胆を喰らうごとに、水城の階層がひとつ増える。最上層が水面に辿りつくまで、もう少しですわ」
 鈴を転がすように真名は言う。
 弥勒には、屏風の後ろで息を詰めている豊吉の動揺が手に取るようだった。
「まやという娘はあなたの侍女ですか?」
「ええ、そう。ここから出られぬ私の代わりに、まやは美しい男を見繕ってきてくれる。私は美しい男が好き。──法師さま、あなたのような」
 蛇のような白い腕が伸ばされ、細い指が弥勒の頬に触れようとしたが、わずかな躊躇いを残し、真名はそのまま手を引いた。褥に座る法師は微動だにしない。
「……女を焦らせるのがお上手ですこと」
「豊吉どのを見初められたというのは?」
「若くて美しい男は、皆、好きですわ。でも、豊吉どのだけを愛したわけではない。あの方で何人目になりましょう。この水城の層をご覧になりまして? 私が力を増すためには、それだけの贄が必要なのです」
「私も、まやが見繕った贄ですか?」
 ふと、真名は惑うように視線を彷徨わせた。
「いえ。法師や僧侶を自ら介入させようとは思いません。ですが、法師さまは、偶然、私の一部を手に入れてしまわれた。夢を通して法師さまを見て、あなたが欲しくなったのです」
「光栄ですな」
 何気ない口調だが、弥勒の眼は鋭い。
「まやはあれを法師さまから買い戻そうとしましたが、私は、逆にこれは好機ではないかと考えました」
「と言うと?」
「普通の男ではなく、法師の胆を喰らえば、何層分、水上に近づくでしょう。一気に水面に達するかもしれません。危険ではありましたが、夢を介し、少しずつ法師さまの精気を吸い、法師さまを弱らせてからここへ招く。そう決めて、まやに指示しました。まさか、このように早く、この場所を突き止められるとは思いませんでしたもの」
「関係のない人間を殺めたのも、あなたの指示ですか?」
「……何のことですの、まや?」
 弥勒がはっと広縁へ目を向けると、いつからそこにいたのか、小柄な少女が静かに座し、手をついていた。
「まや──!」
「あの折は失礼いたしました、法師さま。まさか、あのように大ごとになるとは思わず……私の目的は豊吉さまをここへお連れすることと、法師さまへ渡す金子を作ること。しつこい男は嫌いです」
「だから、殺したのか?」
「真名さまのために」
 そこに手をついたまやは、静かに頭を下げた。
 淡い狭霧が広縁を覆う。
 滝の音だけが響く、ここは、現世から切り離された異界であった。

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2015.10.20.