夢魔 非時香菓ときじくのかくのこのみ− [参]

 ふと気づくと、珊瑚は退治屋の装束を身にまとい、飛来骨を携えて、地に片膝をついていた。
(あたしは、いったい……)
 そっと辺りを見廻してみる。
(琥珀)
 隣には弟の琥珀が、そして父と退治屋の仲間たちが彼女と同じように片膝をついて身をかがめている。
(父上、みんな……)
 そうだ、この城へは妖怪退治に呼ばれてきたのだ。
(何をぼんやりしてるんだ、あたしは。仕事だというのに、しっかりしないと)
 今日は琥珀の初陣でもある。
 必ず成功させねばならない。

 標的は巨大な化け蜘蛛だった。
 力を合わせてみなでしとめ、珊瑚の飛来骨でとどめを刺す。
 動かなくなった化け蜘蛛の頭を潰そうとする仲間たちを見て、珊瑚は違和感を覚えた。
(簡単すぎるな……)
 ふと眉をひそめたとき、妖怪退治を見物していた城主のいる場所から血煙が上がった。
「……っ!」
 人々のどよめきにはっとして振り向くと、髪の長い青年が手にした刀で城主の首を斬り落としたところであった。
 落とされた首は見る見るうちに蜘蛛へと姿を変える。
「妖怪!」
 珊瑚が叫ぶのとほぼ同時に、若者の刃が妖を貫いた。
――妖怪に乗っ取られていたのだな」
 飛来骨を持って駆け寄った珊瑚の耳に、若者のつぶやきが洩れ聞こえた。

 大蜘蛛を始末し、改めて控えた退治屋たちに、城主に化けた妖怪を手にかけた若者――蔭刀という若殿は、約束通りの礼金を渡すと言った。
「しかし、手前どもが参じたにも拘らず、ご城主がこのようなことになり……」
「仕事はこなしてもらったのだ。父に妖怪が取り憑いたのは今日ではない。おまえたちに落ち度はない」
――は、勿体ないお言葉」
 珊瑚の父は平伏した。他の者もそれに倣う。
「その代わりといってはなんだが」
 蔭刀はちらと里長の後ろに控えている娘を見た。
「そのほう、名は」
 いきなり問われて珊瑚はたじろいだ。
「……珊瑚です」
 蔭刀はにこりともせずに珊瑚にうなずく。
「その娘、珊瑚を私の手許に置きたい」
 里長の表情が強張った。
「いえ、娘は城中での作法などわきまえぬ卑しき身。このような者をおそばに置かれては、若様のお名に傷がつくかと」
 権力を笠に着て大事な娘を弄ばれては敵わない。
 遠まわしに辞退するという意味は充分に伝わったであろうが、蔭刀は歯牙にもかけなかった。
「勘違いするな。妾に欲しいと言っているのではない。私に仕えてもらい、いずれは正室にしたいのだ」
「はっ? 正室……? あの、いずれとはどういう」
「それは珊瑚次第だな」
 どうしてこんなことになってしまうのか、珊瑚には解らなかった。
 若殿の申し出を父は断ることができず、彼女は今、城にいる。
 ともあれ、十日もすればこの青年も戯れに飽きるだろうと珊瑚は高をくくっていた。
 そうしたら退治屋の里に帰ろう。里を出て見知らぬ男に嫁ぐ気など毛頭ない。
 そうこうしているうちに、目算していた十日が過ぎた。
「珊瑚。いるか」
 与えられた部屋でぼんやりしていた珊瑚のもとを、蔭刀が訪れた。
 彼女は独立した部屋を与えられ、新たに城主となった蔭刀に相応しい女性にょしょうとなるため、城で生活するための作法やしきたりなどを習っている。
 蔭刀は珊瑚に指一本触れることはなかったが、こうして毎日彼女のもとを訪れている。
(この人は親切だ)
 と珊瑚は思った。
 しかし、何故、会ったばかりの、自分のような身分の違う女を城へ招き入れたのだろう。
 やさしく接してくれてはいるが、青年は捉え処がなく、珊瑚は彼に生身の人間らしさを感じることができなかった。
「これを」
 と青年が珊瑚に差し出したのは一枝の白い花であった。
 手を伸ばして受け取る珊瑚の様子を、蔭刀はわずかに眼を細めて見つめた。
 彼の好みに美しく装った珊瑚は、どこから見ても武家の娘だ。
「なんの花?」
「橘だ」
「橘――
 可憐な白い花に視線を落とす珊瑚の脳裏に、不意に閃くものがあり――

“昔の恋人を覚えているか……と問いかける意味があるんですよ”
“昔、会った自分を覚えていませんかと、尋ねているのではないかと”

 ――脳裏をかすめた言の葉は、たちまちのうちに霧消した。
「私の気持ちだ」
「ありがとう」
 珊瑚は辺りを漂う芳香に気づいた。
「甘い香りがするね、この花」
 蔭刀が珊瑚の傍らに腰を下ろす。
「まだ、決心はつかぬか」
「……」
 珊瑚はわずかに身を固くした。
「私が嫌いか」
「嫌いってわけじゃ……」
 そう、嫌いではない。
 けれど、「好き」という感情も抱けずにいた。
 何故だろう、と考えてみる。
 そして瞳を曇らせた。
 自分は彼に同情しているだけなのだろう。
(蔭刀さまは、父君を妖怪に殺され、父君の姿をした妖怪を、その手で殺さなければならなかったから)
 そのむごい定めに同情の念を抱いたのだ。
 故に、少しでも気がまぎれるならと、彼の戯れにつきあおうとした。
 “同情”しているうちは“好き”に至ることができない。
「嫌いでなければ、正室として私のもとにとどまることを考えてほしい」
 この十日間、この城で実際に暮らしても、蔭刀の正室となることは、珊瑚にとって非現実的なものでしかなかった。
「……ごめん。あたし、やっぱり、妖怪退治屋として生きるほうが性に合ってる。蔭刀さまの気持ちは嬉しいけど、でも城では暮らせない」
「では、もし私が今の地位を捨て、おまえの里におもむくと言えば、私と夫婦になることを承知してくれるのか」
「……」
 困惑したように眼をそらす珊瑚を、蔭刀は物憂げに眺めた。
「おまえと私は同じなのだ。あの邪悪な妖怪に肉親を殺され、住む場所を追われ、全てを奪われた」
 えっ? と珊瑚が顔を上げたが、蔭刀は構わず続けた。
「だが、全てを失ってなお、おまえの精神は気高く、強い」
 あっと思う間もなかった。
 珊瑚の身体は蔭刀の腕の中に抱き寄せられていた。
「だからおまえを愛した。おまえを得たことで癒される思いがする。私を憐れむなら、このままここに私といてくれ」
 自分と同類……?
 それはどういう意味なのだろう。
 しかし、このときはじめて、珊瑚の心にこの若者と本気で向き合ってみようという気持ちが生まれた。
 愛せるかどうかは解らない。
 一度は振り払おうとした相手の腕に身を任せ、珊瑚は眼を閉じた。
「考えさせて」


 長い長い廊下を、弥勒は、一人歩いていた。
(これが珊瑚の夢なのか?)
 どうやら大きな城の中らしい。
(珊瑚と城? どうつながるんだ)
 別の夢に入り込んでしまったのだろうか。
 そうなると、また手立てを考えねばならないが、まず、この場所で珊瑚を捜すべきだろう。
 錫杖を鳴らし、法師は進む。
 いやに陰気な、ひと気のない場所だった。いくつもの部屋の前を通り過ぎたが、どこもひっそりとしている。
「ふう」
 まるで迷路のようだ。
 息をついて、弥勒は丁字路になった廊下のつきあたりで足をとめた。どちらへ行こうか。
「……ん? 香りが」
 弥勒を誘うように、仄かに甘い香りが流れてくる。
「これは……花橘の香りだ」
 珊瑚が手にしていた橘の花を思い出し、弥勒はそちらへ足を向ける。
 “夢”の世界に来てから、まるで時間の感覚が麻痺しているようだ。
 もう何日も果てしなくこの長い廊下を歩いているようでもあり、ついさっき来たばかりでもある。
(時じくの実、とはよくいったものだ)
 正常に時が刻まれることのない世界。
 あらゆる時間が交錯している。
 少し進むと、庭に面した縁になっていた。
 広い縁もまた長く続き、片側は障子で仕切られた部屋が連なっている。
 これだけ部屋があるのに何故、無人なのだろう。
 実体のない“夢”という、常識で計れない世界だからなのか。
 どんどん進んでいくと、ひと部屋だけ、障子の開け放たれた部屋があった。
 法師は何気なくその部屋を覗いてみる。
 広くもなく、狭くもない。
 棚に置かれた壺に甘い香りを放つ花橘が一枝、挿してあった。
 貝合わせの貝が散らばり、部屋の中央には、山吹色の衣裳をまとった姫君が一人、こちらに背を向けて座っている。
 手にした貝に視線を落とし、所在なげにぽつんと座っている後ろ姿が、西日のあたる縁側に一人で座っていた愛しき娘の記憶と重なる。
 とりあえず、ここはどこなのかと声をかけようとして息を吸い込むと、彼の気配に気づいたのか、姫君のほうが振り返った。
 “姫君”ではなかった。
――!」
 振り向いた彼女の顔を見て絶句した。
「珊……」
 息がつまる。それは確かに捜し求めている娘に間違いなかった。
 弥勒は喜びと安堵の吐息を洩らし、部屋に駆け入って片膝をつき、娘に手を伸ばそうとした。
「珊瑚」
 無事だったのか。
「……誰?」
 伸ばした弥勒の指先がぴくりと止まる。
 特別な感情などこもらない、純粋に問う珊瑚の声と表情に弥勒は愕然と眼を見張った。
 珊瑚は座ったままじっと法師を見て、彼の答えを待っている。
「誰? 蔭刀さまの知り合い?」
 珊瑚を救うことだけを思い、ここまで来た。
「珊瑚――おまえ、私が判らないのか……?」

 “弥勒法師”を珊瑚が忘れる――

 ここまで来て、そのような事態は予想だにしていなかった。

≪ 弐   肆 ≫ 

2010.4.8.