硝子の迷路

第三章 琥珀の川

 次の休日、エリダノスというバス停で、珊瑚はバスを降りた。
 珊瑚の通う大学前のバス停から、バスで三十分ほどの郊外である。
「えっと……」
 周囲を見廻し、珊瑚は肩に掛けたバッグの中からスマートフォンを取り出した。あらかじめ弥勒から、簡単な地図と彼の家の写真をメールで受け取っている。
 この辺りは市街地よりゆったりと建物が立ち並び、緑が多い。
 サロン・ド・テ「白い猫」の人気メニューのタルトを持って、メールでの指示通りに進むと、ところどころ白い壁が蔦に覆われた、切妻屋根の瀟洒な家が見えてきた。
(あれだ)
 緊張して、胸が高鳴る。
 弥勒と出逢ってから、鼓動のリズムがどこかおかしい。いつも心がふわふわして、うまく呼吸ができないときもある。
 苦しくて、それでも彼に逢いたくて──
 呼び鈴を鳴らしたが、反応はない。
 建物は低い石の塀に囲まれて、門扉はなかったので、珊瑚はそのまま玄関まで入っていった。
「弥勒さまー?」
 玄関扉を叩き、それでも応答はなく、珊瑚は整然と並ぶ縦長の格子窓を覗き込んだ。
 勝手に入っていいと、彼は言っていた。
 そっと玄関の扉に手をかけ、開けてみると、鍵はかかっていない。
 どきどきしながら、彼女は家の中へ入った。
「こんにちは、珊瑚です……」
 広い玄関ホールの正面の扉が開け放されたままになっている。そこはリビングらしく、ちらと人影らしきものが珊瑚の眼に映った。
「弥勒さま……?」
 扉をくぐると、大きなソファに仰向けに横たわった弥勒がすうすうと寝息を立てていた。
「……!」
 一瞬、呼吸が止まりそうになった。
(また、デジャヴ……)
 こんなふうに、意識のないこの人を見つめたことがある。
 とてもつらくて、苦しかったあれは、いつのことだったのか。
 そのときのことを、もっとよく思い出したくて、珊瑚は音を立てないよう、弥勒に近づいた。
 バッグを床に下ろし、タルトの箱を傍らの小さなテーブルに置こうとして、テーブルの上に置かれたものに気づき、はっとした。
 淡い桃色の“珊瑚”。
 いくつもの珊瑚のブレスレットが、硝子の器に入れられている。
 CDのジャケットに写っていたブレスレットは、弥勒の私物だったのか。
 きゅっと胸が締め付けられる。
 まるで、硝子の迷路に迷い込んだような気持ちだ。
 はっきり前が見えているのに、まっすぐに進めない。
 デジャヴの正体を思い出せないことがもどかしい。
 珊瑚は記憶をなぞろうと、うたた寝をする弥勒のすぐそばまで寄った。
 ソファに手をついて、身をかがめ、そっと弥勒の顔に顔を寄せた。祈るように唇を近づけていく。
(……なないで)
 脳裏を駆けたその言葉に、珊瑚は驚いて動きをとめた。
 涙がこぼれそうになる。
 この愛しさと切なさは何だろう?
 そのまま、彼の顔を見つめていると、すぐ目の前にある弥勒の唇から吐息がこぼれた。
 彼の瞳がそろそろと開かれる。
 珊瑚は横たわる彼の上に身をかがめたまま、動くこともできず、熱を帯びた瞳でじっと彼を見つめていた。
 弥勒は、刹那、ぎょっとしたが、あと少しで触れそうな位置にある唇と、潤む彼女の瞳を見て、すぐに表情を和らげた。
「まずいところで目が覚めましたか?」
「……え」
「終わるまで待ちますよ。眼は閉じていたほうがいいですか?」
「……」
 珊瑚は真っ赤になり、弥勒が枕にしていたクッションを引き抜くと、それを彼の顔に投げつけた。
「スケベ!」
 大仰にため息をついて、弥勒は起き上がる。
「ひどいですな。ちょっとふざけただけじゃないですか」
「……お邪魔します。これ、『白い猫』の洋梨のタルト。テイクアウトはやってないんだけど、特別にお願いしたの」
 眼を伏せたまま珊瑚が差し出すタルトの箱を、弥勒は受け取り、やわらかに微笑した。
「ありがとう。レモネードでも如何です? 適当にくつろいでいてください」
 キッチンへと向かう弥勒を見送り、珊瑚は彼が横たわっていたソファに腰掛けた。
 リビングにはグランドピアノが置かれ、その向こうにはチェロスタンドに立てかけたチェロもある。譜面台には楽譜が散乱し、彼はこの部屋をレッスン室として使っているようだ。
 レモネードのグラスを手に戻ってきた弥勒に、珊瑚はテーブルの上の品を示した。
「ねえ、弥勒さま。CDのジャケットに写っていたブレスレットは、この中のひとつなの?」
「そうですよ。可愛いでしょう? この珊瑚のアクセサリーのせいで、私はどんな女性とつき合っても長続きしないんです」
 軽い口調だったが、彼の恋愛の話に珊瑚はどきりとした。
「ど、どうして?」
「私が恋人よりも“珊瑚”を選ぶから、というのが彼女たちの言い分です」
「……」
 漠然と、彼は“珊瑚”に惹かれていた。
 恋人へのプレゼントにアクセサリーを選ぶとき、つい一緒に珊瑚の品も購入してしまう。
 彼が珊瑚のアクセサリーを買ったことを知った恋人は、当然、自分へのプレゼントだと思うが、いつまで経っても、贈り物の気配はない。
 問いつめると、弥勒はただ買っただけだと言い、しかし、彼がそんなものを持つ必要性がなく、他に女がいるのだろうということになる。
 複数の女性とつき合ってなどいないと説明しても、ではあの珊瑚のアクセサリーが欲しいと求める彼女に対し、弥勒は“珊瑚”だけは誰にも贈ることを拒んだ。
「で、結局、振られるか、自然消滅してしまうんです」
 弥勒は苦笑し、レモネードのグラスをテーブルに置くと、ピアノの椅子に腰掛けた。
「『白い猫』でも、最初に珊瑚という名前が耳に飛び込んできて……もっと近い席の誰かが仲裁に入りそうな様子でしたが、あの娘は私が助けたいと、勝手に身体が動いていました」
「いろいろと世話を焼いてくれるのは、あたしが珊瑚という名前だから?」
「名前はきっかけに過ぎません。おまえは、私の知る中で一番魅力的な女性です。……知り合えてよかった」
 不意に弥勒の声が甘やかに響き、どぎまぎとして、珊瑚は慌ててレモネードに口をつけ、話題を変えた。
「エリダノスって、変わった地名だね」
「ギリシア神話からきているんですよ。琥珀の川という意味です」
「ああ、パエトンの神話? それなら知ってる。確か、弟の死を嘆く姉たちの涙が琥珀になって、川底にこぼれたんだよね。泣き続けた姉たちはポプラになって……綺麗だけど、悲しい話」
 そのとき、ふと珊瑚が見せた憂いを帯びた眼差しを、弥勒はどこかで見たことがあるような気がした。
「珊瑚には弟がいましたっけ」
「ううん。兄弟はいない。田舎に両親だけ」
「田舎はどこですか?」
「アンブル地方。……なんか、偶然」
 珊瑚はソファから立ち上がり、ピアノの椅子に、鍵盤に背を向けて腰掛けている弥勒のそばまで近寄った。
「あたし、弥勒さまの家まで押し掛けてきちゃったけど、本当はリサイタルの準備で忙しいんだよね。……これ、演奏する予定の曲?」
 譜面台の楽譜へ向けられた珊瑚の視線を弥勒も追った。
「バッハですよ。弾いてみましょうか」
 そう言って、弥勒はピアノに向かって座り直し、鍵盤の上に長い指を置いた。規則正しい流麗な音色が流れる。
「これにグノーがメロディをつけたのが、アヴェ・マリアです」
 もちろん知っている。もらったCDにも収録されていた。
 弥勒は途中で手をとめて、珊瑚を振り返った。
「珊瑚は、ピアノを弾いたことは?」
「子供の頃に遊びで弾いたことはあるけど」
「では、ここへ座って」
「えっ? ちょっと」
 立ち上がった弥勒の代わりに、珊瑚はピアノの前へ座らされた。
「別に上手な演奏は期待していませんから、譜面の通りに弾いてみてください」
 珊瑚は仕方なく鍵盤に両手を乗せた。
 平均律クラヴィーア曲集・第一巻のプレリュード。
 音符を追って、たどたどしく弾き始めた珊瑚だが、何より背後から弥勒が覗き込んでくるので、そちらが気になってならなかった。
「腕が固いですよ。手は卵を掴むような形で」
 学生時代、子供にピアノを教えるアルバイトでもしていたのだろう。
 遠慮なく珊瑚の腕に触れ、彼は熱心に指導を始めた。そして、少し彼女が慣れてくると、チェロスタンドに立てかけてあったチェロを持って椅子に座り、弓を構えた。
「珊瑚の弾きやすいテンポで始めから。前奏のため、一小節目はくり返してください」
 珊瑚はできるだけ丁寧に、ピアノを弾き始めた。
 すぐにピアノの上に、チェロの音色が重なる。
 初めて生で聴くなめらかな彼の音は、琥珀の川を思わせた。
 川底に散らばる無数の琥珀が、太陽を受け、きらきらと輝く。弥勒のチェロは、そんな川の流れのような音色だった。
 彼の演奏に聴き入るあまり、珊瑚は突然、弾くのをやめた。
 ピアノの伴奏が途絶えたあとも、アヴェ・マリアの旋律は続く。
 毎日、彼のCDを聴いているが、目の前で奏でられる音色は比べものにならないくらい深く、艶やかで、耳に心に沁み入ってくる。
 最後まで弾き終えた弥勒が静かに弓を下ろしたとき、珊瑚は吐息のようなつぶやきを洩らした。
「素敵……」
 顔を上げた弥勒が嬉しそうに微笑む。
 思わず頬を染めた珊瑚は、うまく伴奏できないことが悔しくなって、鍵盤に目を落とした。
「全然駄目。あたしじゃ弥勒さまの伴奏にならない」
「珊瑚にその気があるのなら、弾きこなせるまで、十年でも二十年でもそのピアノで練習してください。特別に私が見てあげますよ」
 さりげなく、窺うように弥勒は言ったが、珊瑚は内容よりもその言葉の響きに気を取られていた。
(十……二十……)
 遠い昔、同じような科白を聞いた。たぶん、彼の声で。
(何か、すごく幸せなこと)
 けれど、探るような視線でこちらをじっと見つめる弥勒の眼差しに気づき、慌てて言った言葉はそっけなかった。
「弾きこなせるまで、そんなにかかるの?」
 ある意味、無邪気すぎる珊瑚の返事に、弥勒はがっかりしたようにため息をつく。
「……だって、おまえは初心者じゃないですか」
 彼はチェロを置き、ピアノに向かう彼女の右隣に座った。
 背もたれのない長方形の椅子は横幅があるが、そこに二人並んで座ると、どうしても身体が密着してしまう。
「一緒に弾いてみましょうか。珊瑚は左手」
「う、うん」
 身を寄せ合うようにして、二人はゆっくり連弾を始めた。
 互いの呼吸が感じられる距離。意識するなというほうが無理な話だ。
 珊瑚は楽譜を見るふりをして、隣に座る弥勒を窺う。
(不思議な人……)
 恋に奥手だと、よく言われた。
 何度か誘われて、男の人と二人きりで食事をしたり、映画に行ったりしたことはある。でも、いつも何かぴんと来なかった。つき合ってほしいと言われても、何か違うと感じていた。
 それが、弥勒といると、全てが特別に感じられた。
 顔を見るたび、声を聞くたび、彼への想いがどんどん大きく膨らんでいく。
(今、告白したら……)
 そして、振られたら?
 明日から彼に逢えなくなってしまう。初めての恋が一瞬の泡と消えるのは嫌だ。もう少し慎重に彼との距離を縮めていきたい。
 並んで座る弥勒の左手が、不意に珊瑚の肩を抱いた。
「!」
 珊瑚は驚いて身を強張らせた。
 ピアノの音がやみ、教会のような静寂が室内を浸す。
「……」
 何か言えば、この瞬間を壊してしまう。
 それが怖くて、肩を抱かれた珊瑚は、微動だにせず、息を殺してうつむいていた。
 弥勒の手に力がこもる。と同時に、彼女は身体を引き寄せられ、彼の両腕に強く抱きしめられていた。
──!)
 頬が熱い。混乱する。
 しんとした部屋に、己の心臓の音だけが、やけに大きく響く気がする。
 今、自分が弥勒の腕の中にすっぽりと収まっていることが、珊瑚には信じられなかった。

≪ prev   next ≫ 

2013.8.22.