浮き島奇譚 −第三話−

 ゆっくりと瞼を開いた。
 全身がずきんと痛んだが、いつまでも倒れているわけにはいかなかった。
「珊瑚――
 意識を取り戻した弥勒が周囲を見廻すと、近くに飛来骨が落ちていたが、珊瑚も男たちもおらず、辺りは静かだった。
「畜生っ……!」
 珊瑚までもが連れ去られてしまった。
 しかも目の前で。そして、嫌な言葉が耳に残っている。
(恋敵だと? ふざけやがって)
 弥勒は怒りを露に錫杖を掴み、それを支えにして、傷を負った身体でそろそろと立ち上がった。
 怪我の具合を確かめる。
 幸い、骨に異常はなさそうだ。
 あの金砕棒をまともに受けていれば、内臓が破裂していたかもしれない。
(すぐに助けに行くからな、珊瑚)
 だが、どこへ行けばいいのだろう?
 鬼たちの行き先について、手掛かりらしいものは何も残されてはいなかった。
「おや、これは?」
 錫杖を握った手の中に違和感がある。
 錫杖を持ち替え、手を開くと、ふわりと宙に朱い羽が浮かび上がった。
「この色は……あの鳥の羽か?」
 二度目に真朱の鳥に法力を喰われそうになったとき、夢中で尾を掴んで払いのけた。あのとき、尾の飾り羽が一枚、弥勒の手の中に抜け落ちたらしい。
 ふわふわと浮いていた羽が、やがて緩やかに空中を滑り始め、弥勒は素早く羽を掴んでそれを阻止した。
 風の流れのせいではない。
 法力を喰う妖鳥の羽は、抜け落ちたあとも、まるで意思を持って動いているようだ。
(もしかして、本体のもとへ帰ろうとしているのか?)
 本体――すなわちあの鳥は、鬼たちと一緒にいるはずだ。
 ならば、そこに珊瑚もいる。
 弥勒は己の指から朱い羽を解放した。
 滑るように宙を流れていくその羽をしるべに、弥勒は足早に歩き出した。


 浮き島の空は外の世界の空と同じものだろうか。
 ぼんやりと空を見上げ、太陽を探していた珊瑚は、そばに来たタケルにいきなり手を取られ、身を固くした。
「何をする……!」
「おまえは隙がないからな。手を放せば、逃げるだろ」
 珊瑚は瞳を瞬かせた。
 では、逃げることが可能なのだろうか。
「ここが閉じた空間だというのは、あたしを混乱させるための嘘か?」
「そう思うなら、もとの村への道を探してみるといい。外界に通じる道は、明日の夜明けまでには自然に閉じるだろう」
 里の四方を囲む山を、珊瑚は見廻した。
 彼女の思惑を察したタケルは苦笑する。
「駄目だ。夜明けまで、おれが珊瑚から目を離さない」
「……」
 眉を険しくしたまま、珊瑚はタケルに握られた己の手を引こうとした。
「つれないな。まあ、そんなところも可愛いが」
 うつむく珊瑚の眉がますます険しい。
「珊瑚。里を案内しよう。おれたち童子がどのような暮らしをしているのか、解ってもらえるだろう」
「その前に、娘たちにもう一度会わせてほしい。あの娘たちと、ちゃんと話し合わなければならない」
「おまえが捜していたあの娘たちも、この里のあちこちを見て廻った。娘たちが見た風景を、珊瑚も見たくはないか?」
 躊躇う珊瑚の返事を待たず、タケルは彼女の手を引き、ゆったりと里の中を巡り始めた。

 緑深き山々にいだかれるように在る小さな里には、民家が点在し、その民家を田畑が取り囲んでいる。
 周囲の山には鳥や小動物が棲み、里人は少数の家畜を飼い、自給自足で賄う。どうしても不足する物があれば、地上に調達に行くのだという。
 そのときは傭兵などを務め、金銭を稼ぐのだとタケルは言った。
 珊瑚はぼんやりと彼の声を聞きながら、周囲の風景を見遣った。
 平和そのものの山里。
 弥勒が痛めつけられた記憶さえなければ、事件など何もなかったのだと錯覚してしまう。
 向こうの畑で、夫婦者らしい男女が睦まじげに畑仕事をしている。ふと、その様子を目に留め、立ち止まった珊瑚を見て、タケルも足をとめた。
「あの女房も、二十年ばかり前、この里へ連れてこられた人間だ」
「えっ?」
「浮き島の童子は単性種族なんだ」
 珊瑚は驚いてタケルを見つめた。
「単性って……男だけの種族? 鬼には女もいるはずだ」
「知っている。地上の鬼はそうだ。ここも昔は女がいた。だが、今の浮き島では女児は絶対に産まれない」
「どうして……?」
「おれは知らん。でも、深草が言うには、閉ざされた里で近親婚をくり返していては、種族が滅びてしまうらしい。だから、浮き島童子の血を守るために、いつしか男児しか産まれなくなったのだろうと」
「略奪婚はそのため?」
 ああ、とタケルはうなずいた。
「人間同士の間にだって、略奪婚はあるだろう。それに、おれたちは本人の同意は必ず得ている」
「あたしは同意してない!」
 思わず彼を睨みつけると、瑠璃色の瞳でじっと覗き込まれ、珊瑚はたじろぎに身を固くした。
「珊瑚は例外だ。おれが惚れてしまった。だから、連れてきた」
 間近で見る青い瞳は神秘の宝石のようだ。
――もしかして、おまえは青鬼か?」
「そうだが?」
 掴んでいる珊瑚の手を引き、タケルは再び歩き出す。
「タケル」
 珊瑚の声に振り返ったタケルは、彼女を見つめ、眼を細めて、唇に笑みを乗せた。
「な、なに?」
「初めて、名を呼んでくれた」
 はっとして、困惑したように、珊瑚は彼から眼を逸らした。
「……おまえに、ここでの生活があるように、あたしにも、もとの世界での生活がある。娘たちが本当に望むなら、この里の童子の嫁になることに余計な口出しはしない。だから、もう一度娘たちと話をさせて。そして、道が閉じてしまう前に、あたしを外の世界へ帰して」
「法師のもとへか?」
「そうだ」
 はっきりとうなずく珊瑚に、タケルは不快を露に眉をひそめた。
「駄目だ」
「どうして!」
「おまえが欲しいからだ」
 珊瑚は言葉を失った。
 人と同じ姿で穏やかに暮らしているように見えても、荒々しい鬼の気性を垣間見た気がした。
「おまえの男というだけでも目障りなのに、奴は法師だ。法師は嫌いだ」
「そんなの、法師さま個人とは関係ない」
「鬼を縛せる法力を持っている。そういう人間が、おれたちの嫁取りについて嗅ぎまわっていた。それだけで、おれたちには危険人物だ」
 静かな里を風が渡る。
 風は、立ちつくす二人の間を抜け、タケルの青みを帯びた髪をそよがせた。
 顔にかかる髪を、彼は鬱陶しげにかきあげた。
「行者や坊主や陰陽師。鬼はそういう輩に使役されてきた歴史がある。おれたちの先祖は、術で縛され、使役されることを嫌い、少人数で行者たちのもとから逃れた。そのため、閉ざされたこの地に隠れ住むようになった」
 静かで厳しいタケルの整った顔を、珊瑚は呆然と見つめていた。
 長い歴史を生き抜いてきた種族のあり方は、部外者が不用意に非難すべきものではない。けれど──
「そして、おれは浮き島の長だ。少しでも里の存在をおびやかす可能性のある者は排除する」
「法師さまは鬼を使役したりしない。鬼だけじゃなく、妖怪だって……た、狸以外は」
「狸?」
 タケルは怪訝そうな顔をした。
「法師を殺さなかったのはおまえのためだ。だが、おまえはこの先、二度と法師に逢うことはないだろう。浮き島の女になり、おれと夫婦になることだけを考えていろ」
「タケル……!」
「行くぞ、珊瑚」
 掴まれた手を引かれ、引きずられるようにして珊瑚はタケルのあとに続く。
 畑の中の土道を歩みながら、空を仰ぎ、彼女は太陽の位置を確認した。
 許された時間は明日の夜明けまでだ。

 浮遊する朱い羽を追う弥勒は、もといた村の後ろに位置する山をひたすら登り続けていた。
 中腹辺りまで来たと思われる頃、不意に、眼前を横切る険しい渓谷に出た。
 渓谷にはかずら橋が渡されている。
 人ひとりがやっと通れるくらいの、幅の狭い、みすぼらしい簡素な橋だ。
 弥勒は渓谷の底を見た。
 渓流が一筋の流れとなって横切っているのが見える。かなりの急流だろう。
 朱い羽は、ふわふわとその橋を渡っていた。
 ちょっと気の弱い人間なら、足がすくんで動けなくなるほどの深い谷と頼りない橋だが、これを渡る以外に手はないようだ。長さは三十間ほどあるだろうか。
 渓谷はしたたる緑の葉を茂らせた樹木に囲まれていた。
 かずらの強度を確かめ、弥勒は慎重に橋を渡り始める。
 法師の重みで、さらには渓谷を抜ける風を受け、かずら橋は不安定に揺れた。
 橋の軋む音がする。
 視線を上げると、朱い羽は橋の向こうの岩の裂け目に吸い込まれようとしていた。
「あっ……おい、待て!」
 慌てて、弥勒は頼りない橋桁を蹴って、危うげに揺れる長い橋を一気に駆け抜けた。日々の戦闘で研ぎ澄まされた勘と、卓越した運動神経によってなせる業だ。
 渡った先には岩壁しかなかった。
 右にも左にも進める道はない。
 だが、羽が消えた場所に、かろうじて人が通れるかどうかというほどの岩の裂け目があった。
「ここか?」
 羽に導かれていなければ見落としてしまいそうな細い裂け目だ。
 弥勒は、用心深くその中に足を踏み入れた。
 薄暗い岩壁の裏を、錫杖の先で探りながら、一歩一歩、足を進める。
 前方に光が見え、まっすぐにそちらへ向かう。すると、突然、外へ出た。
「……」
 まぶしさに一瞬目がくらむ。
 振り返ると、彼はどこかの洞穴から外へ出たようだった。
 あの裂け目がこの洞穴に続いていて、別の山に来てしまったらしい。
 洞穴の入り口にはしめ縄が張ってある。
(何故、こんなところにしめ縄が。もしかして、異界のしるし……?)
 “童子”たち鬼の世界。
 鬼面をかぶった神が、その面をぬぐことが叶わず、鬼になったという伝承を、弥勒はぼんやりと思い出した。
 しるべのため、通る道筋の木の枝を折りながら、彼は急ぎ、山を下りた。
 眼下に少しずつ、小ぢんまりとした里が姿を現す。
(これは……まるで、壺中の天のような……)
 四方を山に囲まれ、深い山々にいだかれるようにして在る典雅な山里の姿に、弥勒は大きく眼を見張った。
 仙境へ踏み込んだような心地がした。

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2013.5.12.