浮き島奇譚 −第四話−
錫杖を手に、弥勒は里へ続く道を急いだ。
朱い羽は見失ってしまったが、おそらく、珊瑚はこの里にいるのだろう。
のどかな田園風景の中をしばらく行くと、向こうから、男が二人、連れ立ってこちらへやってくるのが見えた。
背負籠を背負い、片手鍬を持っているから、山へ山菜採りにでも行くのだろう。
黙ってやり過ごそうか、それとも声をかけ、別の村から攫われてきた娘たちのことを知らないかと尋ねてみようかと、彼が逡巡したとき、向こうも弥勒に気づいたようだ。
弥勒の出で立ちを見て、男たちは微かに蒼ざめ、足をとめた。
「……人間が、この里に?」
「しかも法師だ。──おい。急いで、このことをタケルに知らせるんだ。おれが法師を足止めしておく」
「ああ、気をつけろ」
里の住人は珊瑚を攫ったタケルという童子の仲間らしい。
この男たちも人間ではないのだろう。
集落のほうへ駆け出した男を追いかけようとした弥勒の前に、残ったほうの男が鍬を構えて立ちふさがった。
「くそっ」
片手鍬を武器に襲いかかってきた男に対し、弥勒は応戦せざるを得ない。
「タケル! タケルはどこだ……!」
浮き島の長を呼ぶ声に、珊瑚を伴って家へ戻ろうとしていたタケルは振り返って立ち止まった。
「何事だ?」
駆けてきた男は息を切らせ、里から山へ続く道を指差して叫んだ。
「里に人間の男が入り込んでいる。しかも、法衣姿だ」
「なんだって?」
珊瑚の手を握るタケルの手に力が入った。
珊瑚自身も驚きに眼を見張る。心臓が早鐘を打ち始めた。
「法師さま……」
無事でよかった、と心の中で祈るようにつぶやいた。
「すぐに行く。おまえはこのことを深草に知らせろ。真朱たちを二、三羽連れてこいと」
「わ、解った」
うなずいた男が走り出す後ろ姿を見送った珊瑚が、警戒気味にタケルを見上げる。
「あの鳥、何羽もいるの?」
不安げな珊瑚の手は離さず、タケルは苛々と歩き出した。
「十羽もいない。深草以外は個体の見分けがつかないが、通常は周りの山に放してある」
弥勒が山から来たのなら、よくその鳥に出くわさなかったものだと、珊瑚は密かに安堵の吐息を洩らした。
とにかく弥勒の姿を見て安心したかった。
法師と対峙する男は、並の人間より遥かに強い力を有していたが、力任せの攻撃は、常から妖怪を相手にしている弥勒の敵ではなかった。
この男にはタケルほどの戦闘能力はないようだ。
攻撃の太刀筋をそらし、一気に錫杖で急所をつく。
「うっ……」
どさっと鈍い音がして、男は地面に倒れ込んだ。
そのときだ。
「法師さま!」
最愛の娘の声を耳にして、はっとした弥勒は顔を上げ、大きく眼を見張った。
「珊瑚!」
道の前方に珊瑚の姿がある。
今にもこちらに駆け寄りそうな珊瑚の手を、青みを帯びた髪の青年がしっかりと掴んでいた。
弥勒に向かって歩を進めていたタケルは、適当な位置で足をとめた。
「どうやってこの里の場所を知った?」
「……」
弥勒は鋭い眼でタケルを見据える。
今の彼は丸腰だ。朱い鳥はいない。
錫杖だけで何とかできるだろうか。
法力はほとんどあの鳥に喰われ、回復するにはもう少し時間が必要だが、時を選ぶほどの余裕はないだろう。
「珊瑚を放せ。それに、拐かした村の娘たちもここにいるんだな? 全員、返してもらおうか」
「あの娘たちは苦界から逃れるために、自らこの里へ嫁入ることを承知した。珊瑚もこれから説得する」
「ふざけやがって……!」
「珊瑚には娘たちと会わせた。娘の中にはすでにこの里の男といい雰囲気になっている者もいる。無理に地上へ連れ戻せば、逆におまえが恨まれるぞ、法師」
「何だと?」
珊瑚を見遣れば、彼女は困ったような表情で弥勒を見た。
珊瑚の様子を見る限り、タケルの言葉はただの言い逃れの方便とも思えなかった。
鳥の羽ばたく音がした。
弥勒と珊瑚ははっとする。
「やっと来たか。遅いぞ、真朱」
尾の長い、真朱色の鮮やかな鳥が、タケルの声に応えるように、軽やかに弥勒の頭上を旋回した。
「タケル」
振り向くと、もう一羽、朱い鳥を連れた深草が、知らせに走った男と一緒に、弥勒、珊瑚、タケルの三人が対峙する場所へ駆けつけた。
「法師……! どうやって里の入り口を見つけた」
驚く深草は倒れている仲間の姿に気づき、眉根を寄せた。
「タケル、この法師はおれたちが考える以上に危険だ。今なら真朱も東雲もいる。早く始末したほうがいい」
東雲はもう一羽の鳥の名らしい。
「待て、深草」
最初は鳥の妖力を知らず、不覚を取ってしまった弥勒だが、今度は鳥たちの動きにも油断なく神経を配っている。
童子たちは法力を恐れ、法師は法力を封じられ、真朱の鳥は法力を喰う。
だが、弥勒は童子たちが法力を恐れていることを知らない。
タケルは艶やかな眼つきで深草に目配せをした。
「その前に、どうやって里へ入ったか訊かねばならん。何かの縁だ。今宵、おれと珊瑚の祝言を執り行い、明朝、珊瑚がおれと夫婦になったことを、法師に見届けてもらおう」
「なっ!」
珊瑚が息を呑んだ。
「おまえの思い通りにはならない。おまえと祝言なんかあげないし、法師さまにも手出しはさせない!」
刹那、タケルはくすりと場違いなほどの笑みを珊瑚に向け、そして弥勒を見遣った。
弥勒に向けられた瑠璃色の眼は冷たい。
「おまえの女はいい女だな、法師。だが、今宵からはおれの妻だ」
言葉とともにタケルは珊瑚を抱きすくめ、唇を奪おうとした。
顎を掴まれ、鋼のような力で固定された珊瑚は顔を背けることもできない。
「い、いや……」
「てめえ、何を──! 珊瑚!」
そこに隙ができた。
思わず珊瑚に気を取られ、弥勒の注意が珊瑚とタケルに向いた瞬間、深草が動いた。
燕のような身のこなしで、拳を法師の鳩尾にめり込ませる。
「……っ!」
そして、その場に膝を折った弥勒の背に、肘でもう一撃を加えた。
息がつまり、前のめりに倒れた弥勒の手から錫杖が滑り落ちる。
「法師さま!」
力が緩んだタケルの腕を振りほどき、珊瑚が弥勒に駆け寄った。
「ひどい……! 法師さまが一体何をした!」
「これがおれたちのやり方なんでね」
タケルは仲間たちに淡々と指示する。
「法師は納屋に監禁しろ。意識が戻ったら、どうやってここへ辿り着いたのかを聞き出し、夜明けまでに処断を決める。真朱と東雲に厳重に見張らせろ」
気を失っている弥勒と里の男はそれぞれ深草ともう一人の男が担いで運び、タケルを拒否する珊瑚も、強引に抱き上げられ、運ばれた。
道に置き去りにされた錫杖を、悔しさに唇を噛み、珊瑚はじっと見つめていた。
法力を奪われた弥勒は思うように闘えない。
一方の珊瑚も、飛来骨さえ軽くあしらわれた相手を、力でどうにかできるとは思えなかった。
里の中で一番大きな家に連れてこられた珊瑚は、その一室に閉じ込められ、しばらく一人にされた。夕闇が迫る時刻には夕餉の膳も出されたが、珊瑚はそれに手をつけることなく、じっと思いつめた様子だった。
夜が更けて、やがて、部屋の外で誰かが見張りの者とぼそぼそ話す声が聞こえ、板戸が開き、タケルが部屋へ入ってきた。
彼は手に持っていた瓶子を膳の傍らへ置き、結び文を、珊瑚の顔の前へ突き出した。
「例の名主の娘とやらに書いてもらった。家族への文だ。法師に渡して家族のもとに届けてもらう。それでいいか?」
「……法師さまはどこ」
「ここから一番離れた納屋に閉じ込めてある。逃げられはしまい。真朱を監視につけてある」
文を受け取った珊瑚は、燈台のもとで中を改め、それを懐にしまい込んだ。
「あんなに傷つけられて、法力も奪われて、どうせ食べ物はおろか、水も与えてないんだろう? そんなことされて、あたしがおまえになびくとでも思うの?」
「人間の口にここの食べ物は合わん」
「あたしには、こんなに豪華な膳を出しているのに?」
タケルは、身体を固くしている珊瑚のそばににじり寄り、彼女の手を握って引き寄せた。
珊瑚は屹と青い眼の童子を睨む。
「急だが、一応、おれたちの祝言の夜だからな。披露目は明日以降になるが、おまえは今宵、浮き島の者になる。こうでもしなければ、法師はおまえを諦めそうにないからな」
抱きすくめられ、珊瑚はありったけの力で抵抗する。
「あたしだって諦められるはずがない。もとの世界には弟がいる。仲間たちもいる。法師さまと違う世界に住むなんて、絶対に嫌だ!」
「そのうち忘れる」
「そんなわけない!」
簡単に珊瑚は押し倒され、タケルは彼女に口づけようと唇を寄せた。
「噛みつくよ。おまえの皮膚はあたしの武器じゃ傷つけられなかったけど、唇や身体の内部は人間と同様、弱いはずだ」
怒りにきらめく珊瑚の瞳は、一種異様な美しさを醸し出していて、タケルは小さく嘆息し、身体を起こした。
「……解った。口吸いはしばらく我慢する」
珊瑚も用心深く身を起こし、わずかに崩れた衿元を直した。
「珊瑚。どうしたら、おれがおまえに惚れていると信じてくれる?」
「あたしを法師さまと一緒にもとの村へ帰してくれたら」
「どこまでも拒む気なら、おのずと法師の運命も予想できるだろう」
「法師さまを殺すっていうの? そんなことをしたら許さない。おまえになびく振りをして、舌を噛み切ってやる」
「……そういうことは黙ってやるものだ」
ため息をつき、タケルは引き寄せた瓶子の酒を盃についだ。
「おまえは可愛くないところが可愛いな」
「何それ」
酒を満たした盃を彼はつと珊瑚に差し出した。
躊躇う珊瑚に微かに笑ってみせる。
「安心しろ。眠り薬など入っていない」
そう言って、彼は自分でそれを呑んでみせた。
空になった盃に再び瓶子から酒を注ぐ。
「この盃を受けたら、法師を手にかけぬと約束しよう」
「……」
ちらと盃を見遣り、彼女は探るようにタケルを見た。
「あたしは?」
「あまり欲張るな」
珊瑚はそろそろと両手で盃を受け取った。
「これを呑んだら、法師さまを無事にもとの村へ帰してくれるんだね?」
「ああ」
彼女はしばらく盃の酒を見つめていたが、そっと口をつけ、ひと口、含んだ。
強めの酒を喉に流して、タケルの様子を窺うと、彼は珊瑚の手から盃を取って、残りの酒を一気に干した。
「これを固めの盃とする」
「!」
珊瑚は愕然となる。
「そっ……そんなこと、ひと言も!」
「何も言わずとも、祝言の夜に交わすのは、固めの盃と決まっている」
「……!」
言葉を失った珊瑚は、蒼ざめ、立ち上がった。
衝撃のあまり、涙が込み上げる。
「っ!」
片手で口許を覆い、珊瑚は部屋を飛び出した。
見張りはタケルが来た時点でこの家から離れている。──タケルは珊瑚を追わなかった。
2013.5.21.